週末ひとりけんきゅうしつ

つれづれなるままにひぐらし音楽と社会をながめる人のひとりごと。(もはや週末関係ない)

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アナログレコード人気再興の再考

前回はサブスクについて書きましたが、今回は対極になるアナログレコード人気の「なぜ?」を深掘りしてみました。(サブスクとアナログは対極でありつつ双方を補完するコインの裏表だとは思うのですが、それは今回はさておき。)

 

■アナログレコードとCDの価値のシーソーゲーム

いきなり結論から入るならば、アナログ人気は要はスノビズムのひとつの形だ、と言ってしまえば簡単でしょうし、実際そうなのでしょう。けれどそれでは、、、あまり本質的ではないですよね。

こういった意見もありました。

 

shiba710.hateblo.jp

 

これもこれでひとつの切り口としてよいと思うのですが、ではなぜ今「カジュアルリッチ」が求められているのか、がイマイチ不明瞭です。

 

「なぜ “今”なのか?」

 

まずレコードとCDの興亡を紐解いてみます。

レコードの生産数は1980年前後をピークに減少、1982年にCDが初めて発売されて以降若干のタイムラグはあれどそこから右肩下がりです。一方のCDはというと、80年代後半から90年代にかけて生産数が飛躍的に伸びて、1998年にピークを迎える形になるわけです。(以降は、右肩下がりが止まりません。。。)

 

【参考】日本レコード協会 「日本のレコード産業」2000年版

http://www.riaj.or.jp/f/pdf/issue/industry/Ryb00j01.pdf www.riaj.or.jp

 

この間をよく見てみると、実は一時期だけ、アナログレコードの生産数が伸びている時期があります。95年から99年にかけてですね。これはDJブームの時期と言ってよいでしょう。私は当時の若者ではないので肌感覚ではわかりませんが、「バンドブームが終わって楽器を持て余した若者たちがそれらを売っぱらってこぞってDJセットを買った」という逸話を聞いたことがあります・・・。

 

では、今のアナログ人気と、90年代半ば~後半にかけてのアナログブーム(本ブログでは便宜的に第1次アナログブームと呼ぶことにします)はどこが同じで、どこが違うのでしょうか?

 

共通しているのは、CDの価値とのシーソーゲームによって価値が付加されたという点ですね。

 

第1次アナログブームの際には、CDが爆発的に生産されるようになったことでCDがごく当たり前のものになった。つまり需要と供給が増えたことによる、それ以前と比べた時の相対的な価値の低下、普遍化が起こったと言えるでしょう。

現在はというと、CDの生産数はガタ落ちなわけですが、それは純粋に、需要の縮小という名の価値の低下です。

 

このように、CDというものの価値と意味が見直されるタイミングで、アナログが注目されるわけですね。CDとの二項対立の相手として、たびたび引っ張り出されてしまうのがアナログの宿命なのかもしれません・・・

 

さて、しかし、第1次アナログブームと現在のアナログブームは、やはり本質的には違うものです。

第1次アナログブームはDJブームと関連のある動きなのでアナログレコードは実際に使用されます。使用価値があるのです。

対して、現在のアナログ人気では、もちろん実際に皆さんレコードをかけて音の豊かさを楽しみつつ、同時に「飾っておきたいから」という欲求も満たしているという話は一般によく聞きますよね。

 

www.nikkei.com

 ツイッターでは、アナログレコードを支持する声が書き込まれていた。「再生音域の豊かさに脱帽」「最近アナログレコードばかり聴いている。たまにCDを聴くと音がまとまり過ぎていて物足りない」のほか、「アナログレコード聴いたら曲順通り覚える」といったつぶやきもあった。

(上記記事より抜粋)

 

アナログを聴く若者の意見を見て気づかされるのが、現代においてそうしたレコードを聴くという行為が、そのように昨今アナログに手を伸ばすようになった人々にとって、ある意味、音楽を聴く行為における「正統なあり方」と位置付けられているのではないかということです。

同記事の中の下記ような、レコードを聴くことに実用性ではなく儀式性を見出す意見にもそうした視点が見受けられそうです。

 

大妻女子大の小泉恭子教授(音楽社会学)は「音楽の起源は宗教的儀式にある。ネットで簡単に聴ける時代だからこそ、ひと手間かけるレコードの儀式性が重視される」と話す。

(上記記事より抜粋)

 

つまり、アナログレコードを所有し聴くという行為そのものに記号的な価値があるということです。

 

■アナログレコードに付加された現代のオーセンティシティ

まわりくどい言い方をしました。

はい、要は、音楽好きを自認する(特に)若者が今日びアナログに何を求めてるんだという話です。若者たちはHMV record shopに通い、レコードストアデイに並び、人気のアーティストのアナログを買っているわけですが、それはなぜか。

 

「音楽好き」というところがポイントです。音楽が好きだからレコードで聴こうと思うわけですから、レコードで聴くことにある種の音楽としてのオーセンティシティ(正統性)―音楽の聴取方法としてあるべき姿―を見ているということが推測されます。そうした価値観は、前述のようにCDを引き合いにすることで新たにアナログレコードに付与された「意味」です。

 

「聴くのに手間がかかることが新鮮なんです」

「ぬくもりや手作り感が感じられる」

「アナログはCDとは音が違うんだよね、CDは味気ないよ」

 

こうした声、私もすごくわかります。でも、よく考えてください、

―何枚も買っているうちに新鮮さは薄れていきませんか?

―カッティングは職人技かもしれませんが、生産は工場でするものですよ?

―丸みのある素敵な音ですけど、アナログをずっと聴いてきた人にとっては当時、CDの鮮明な音を歓迎したかもしれないですよ?

 

1980年よりも前はアナログが普通だったのです。

当時は、アナログは希少なものではなく、むしろ大量生産のための手段で、庶民が音楽を聴くための当たり前の媒体でした。

 

そう、つまり人々の間で、こうした「古めかしさ」が、文化としての「正しさ」や「高尚さ」にすり替えられているということなのです。

 

こうしたかつて大衆的なものだったものの、古さの高尚さへのすり替えというのは、よくある現象でもあります。音楽で言うなら、ジャズはその代表ですね。また、着物や歌舞伎(歌舞伎の高尚化には政治的な意図があったそうなので自然な現象ではないですが)などもそうかもしれません。

庶民のものだったものが、伝統や形式という装飾が強調され高尚なものとして社会的な意味が変容したのです。

 

今やアナログレコードは希少というイメージが強く、本来の大量生産・大量頒布の媒体という役割は担っていないため、現在新たに発売されるアナログは、乱暴に言えば、それが当たり前だった時代の、それらの「レプリカ」にすぎないとも言えます。

けれども、現代新たに製造されるアナログレコードは、そうした当時の本来のあり方にはなかった意味、すなわち、音楽としてより「本物」らしいというイメージが、人々によって新たに付与されている、という倒錯した関係が展開されているのは、とても興味深いです。

 

■ビジュアルイメージの時代とアナログレコード

ここで改めて最初の問いに戻りましょう― ではなぜ、“今”なのか?

 

YouTubeなどを通じて音楽を所有することが少なくなったからこそ、モノとしての音楽が見直されている」という話や「CD音源との音質の違い」については、もちろんそれもあるだろう、とは思いつつ、それとは別の角度から考えてみます。

 

注目したいのは「アナログレコードを飾る」という行為の特殊性です。もう一度先ほどの記事を引用してみましょう。

www.nikkei.com

「部屋に飾るの今から楽しみ」「ジャケだけで買っちゃいそうになるのもある」とレコードジャケットの魅力を指摘する声もあった。

(上記記事より抜粋)

 

これは第1次アナログブームにはあまり際立ってはいないはずです。(もちろんあるにはあったと思いますが)

 

気に入ったものを目に見える状態にするということ、これって実はここ数年、より強い傾向があるように感じています。

たとえば「フォトジェニック」という言葉があります。意味は「写真映えがする」ということ。前からあった言葉ですが、最近は、以前より注目されています。

 

スマホの普及、スマホのカメラの性能の飛躍的な向上は、美しい写真を撮ることを本当に簡単にしました。

綺麗な夕焼けを見れば、素敵なカフェに行けば、珍しい料理が出てくれば、すかさずスマホで写真を撮る。そして人はその素敵に撮れた写真を、時にはSNSに投稿するでしょう。

 

インターネットが普及するようになって、人は視覚から得る情報がそれまで以上に圧倒的に増えたそうです。15年前と5年前を比べると人が視覚から得る情報は15倍になったらしいと聞きました。このブログを読むことだってそう、文字であれなんであれ、インターネットで得る情報の多くは、視覚情報なのです。

だから、ネット上かリアルかにかかわらず、視覚から得られる情報は現代ではますます重要視されるようになっていると言えるでしょう。

 

Instagramが流行っているのもそうした背景があるように思われます。よりわかりやすく視覚に特化し訴えるようなメディアが支持される時代なのでしょう。

Instagram映えすることを「フォトジェニック」を文字って「インスタジェニック」と言うくらいです。)

 

撮れた写真を、人に見せるか、SNSに投稿するか、自分のスマホに保存しておくだけにするかは、人それぞれ、場合によりけり、だけれども、

いずれにせよ写真というビジュアルイメージを、スマホに詰め込んで肌身離さず持ち歩く、という行為に人は少なからず満足感を得る時代なのです。

 

さらに言えば、写真に撮らなくても、素敵なビジュアルイメージを自分の目がとらえる、というごく単純な行為の価値すら、昨今は上がっているとも言えるかもしれません。「ワタシ」という存在がフィルターそのものになっている。

 

だから、大きくて見映えのするレコードのジャケットというのは、今こそ、飾り甲斐がある。飾るだけでも満足だけれど、人によっては写真に撮ってSNSに投稿するし、その価値も大いにある。

 

単純にモノとしての「デカさ」が強調され、精緻に表現されたデザインでも視覚的にわかりやすいアナログレコードは、音楽好きの現代の若者にとってみれば、まさにうってつけのアイテムなのかもしれません。

 

 

とかなんとか、シニカルに書きましたけど、私もそんな若者たちの一人なのでした。ちゃんちゃん。。

ジャケットじゃないですけど。笑

ROTH BART BARONとっても素敵ですよね。新譜はCDで買ってしまいましたが・・・。

 

 

■補足:カジュアルリッチもまた現代病

※ここから抽象的な話を始めちゃうので、余力のある方はよろしければ・・・。

 

そういえば触れていなかったので。冒頭のブログについて。揚げ足取りではないんですが一応・・・

shiba710.hateblo.jp

 

アナログレコード人気も若者のカジュアルリッチ指向の一種と見るのはもちろん賛成です。その通りだと思います。

けれど、そんな「大量生産品ではない、手間のかかったモノを持ちたい、人とは違う経験をしたい」というカジュアルリッチな考え方が人々の間に表れるのもまた、大量消費社会の一側面なんじゃないでしょうか。

 

私が大学時代にかじって影響を受けた社会学ボードリヤールの主張を非常に大雑把に端折って拝借すると、

現代の消費社会の中では、自分のアイデンティティは「他人がどう思うか」によって形作られるので、どんなモノを自分が消費するかによって確定させる必要があるとされます。その際、広告やマスメディアが提供するモノやコトのイメージが、ひとつの価値基準として機能するともされます。

 

さて、現在ではマスメディアの力が減退し、インターネットやソーシャルメディアの力がより増していますね。つまり、マスメディアが提供するような画一的な価値観の相対化が進んでいるように私には思われます。

自分も含めて、相対的な個がバラバラに存在するとなると、自分自身による自己の定義はより強く求められるようになるでしょう。

 

そんな中、自己の再定義に効果的なのは、大量に生産されマスメディアによって媒介されるようなモノゴトではなく、自分しか持っていないモノや、あるいは特別な体験(コト)。

それらで身を固めることが求められるのは、一歩進んだ現在のような消費社会においては、必然なのではないでしょうか。

 

 

ハンドメイド、手間暇かかったもの、希少なもの、一度きりの体験、それら大量生産物を拒否するためのカジュアルリッチなモノゴトは、とはいえ実はそれこそが、ハイパー大量消費社会の産み落とした産物なのかもしれません。

 

 

有料音楽配信と、ITの進化に興味のない"デジタルネイティブ"

前のエントリーから2か月も空いてしまいました!立て込むとなかなか続かないですね。。2週間に1回ぐらいにしたいものです。

 

今回は前回までと打って変わって、特定のアーティストのことではなく、

昨今話題の「サブスクリプション型定額音楽配信サービス」を中心に若者と有料音楽配信の関係について考えてみました。

 

普段実際にいろいろ見聞きする中で(若者からもそうでない人からもです)「"デジタルネイティブ"な若者って、実はデジタルサービスのこと、全然よくわかってないんじゃないだろうか?」という話が出てきて、それがとても腑に落ちたこともあり、

そんな趣旨をベースに、「何故有料音楽配信は(ダウンロード購入も、サブスクリプション型も)さほど普及しないのか」いろいろ語ってみました。

 

※記事のアイキャッチは下記から設定させていただきましたがなんの関係もございません。悪しからず。

スマホで音楽を聴く人が急増中!!ソニー ワイヤレスヘッドホンムービー「ダンスリレー」篇 3月15日(金)より公開|ソニーマーケティング株式会社のプレスリリース

 

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■オンデマンド型サブスク音楽配信の苦戦模様

音楽好きの間ではローンチ当初盛り上がりを見せたサブスクリプション型の定額音楽配信サービス。今年ローンチした主要3サービスはその中でも特に「オンデマンド型」と呼ばれる、ユーザーが好きに聴きたい曲を選べるタイプのサービスですが*1、その無料期間が終了しつつある中その「結果」が表れつつあります。

 

 

ざっと見て、サービス利用者が全体の1割、そしてさらに今後の有料課金見込みユーザーは1割。あれほど「音楽好き」に騒がれていたにしては思ったより少ないという印象ですね。

個人的な見立てなのですが、こうしたサービスは実はあまり若者に浸透していないのではないように感じています。

 

アプリ内にYouTubeなどから音源がひっぱってきてあり、それらを聴くことのできる無料アプリというものがあります。MusicBoxや、MusicTubeeなど。当然、これらは法的にはかなりグレーゾーンなアプリです。

 

ですが、こうしたアプリで音楽を聴いている人が、特に若者には多いのです。

そしてそうした人々は基本的には熱心な「音楽好き」ではないですね。無いなら無いで他の娯楽で代替できるような、ごく普通の、ライトな関わり方をしている人々。

そういう人にとっては、無料でほとんどの楽曲が聴けてしまう以上、あえて課金して新サービスを使おうというのは、まああり得ない話ですね。

 

■巷に巣食う、「ITサービスはなんだかよくわからないから」

とはいえ、サブスクサービスにはこうした無料アプリにはない付加価値があるのも事実です。レコメンドエンジンやアーティストや友人とのコミュニケーション機能など・・・
ですがそこに魅力を感じている人が想像以上に少ない。魅力に気づいている人も少ないのではないでしょうか?

 

そしてそれ以上に、どうやら思っているほど世間の人はこうしたITサービスの進化についていけていないのではないか、とも思われます。
興味のある人は自分で調べてキャッチアップしていくでしょう。周りに詳しい人や興味を持っている人がいる場合も比較的使いこなせるようになっていきます。
が、聞いたところによると、若いから、といっても各種アプリやサービス、またiPhoneユーザーならApple IDによる端末間の連携他、「イマイチなんだかよくわからない」という人も多いようなのです。

 

この「なんだかよくわからないから」という理由こそが、サブスクリプション配信サービスも含め、音楽にかかわるデジタルコンテンツ全般の不振の1つのボトルネックなのではないかと感じ始めています。

実を申しますと、私、こんな記事を書きながらも、AWA・LINE MUSIC・Apple Musicについてはローンチしてすぐにユーザー登録したわけではなかったりします・・・(もちろんその後一通りは触りましたが。)これは、なんとも形容しがたいのですが・・・確かに私も感じていました、この「なんだかよくわからないからとりあえず手を出さないでおこう」という感情・・・

 

■着うたは本当に若者の「コミュニケーションツール」だったのか?

さて、いったん話を別の話題に振りましょう。
「着うた」というものがありましたね。着うたの最盛期は、2008~2009年ごろと考えてよいでしょう。 *2

これはガラケー最盛期と重なります 。*3※※

 

日本レコード協会の統計にはグラフ化したものはありませんでしたので、下記参考までに。

f:id:seaweedme:20151012215337p:plain

止まらぬ凋落、合わせて3000億円を切る…音楽CD・有料音楽配信の売上動向(2015年)(最新) - ガベージニュース

 

※※参考までに、古いデータですが。

f:id:seaweedme:20151012215022p:plain

スマートフォン市場規模の推移・予測(2013年10月) - 株式会社 MM総研

 

よって、現在のデジタル音源のダウンロード配信販売が伸び悩んでいることの原因としては、ガラケーからスマホへのデバイスの変化が指摘されることが多いです。

着うたについての考察としては、面白い記事がありました。

 

shiba710.hateblo.jp


着うたはコミュニケーションツールだった、ジュークボックスの役目を果たしたのだというのです。

氏によれば、

 

「着うた」という文化がまるごとなくなったのは何故か。その理由は、そもそも着うたが「音楽そのもの」(=コンテンツ)ではなく「会話のきっかけ」(=コミュニケーションツール)を販売するサービスだったから。僕はそう考えています。

「LINE Music」はスマホの普及で壊滅した「着うた」文化を蘇らせる - 日々の音色とことば

「ねえ? これ知ってる?」という会話のきっかけになるものに、人はお金を払うわけです。

「LINE Music」はスマホの普及で壊滅した「着うた」文化を蘇らせる - 日々の音色とことば

 

ということだそうです。

私、この記事を読んだ当初、ははあととても納得したことを覚えています。だから私も当初は、「サブスクサービスが今後はそこに取って代わるに違いない!」とサブスクサービスに非常に期待感を抱いたりしてました。

 

ただ、今、よく思い出してみたのです。私、何を隠そう、着うた全盛期世代に青春を過ごした人間でした。着うたで友人とコミュニケーションをとったことがあったかな・・・と、、、

う~ん、私自身の中には、思い当たりません。。

本当にジュークボックス的な存在だったのでしょうか?

 

ただ1つ、言えることがあります。楽曲そのものについて語った記憶はありませんが
着うたとやらをどこでどう手に入れるか、ということについては、初めは友人づたいに、だったと思うのです。
――つまりこういこうとではないでしょうか。着うたは確かに、友人同士のコミュニケーションツールだったかもしれません、ですがそれは着うたという「ツール」の存在とその使い方について、語られたにすぎないということ――

 

■"デジタルネイティブ"とは「デジタルツールに詳しい」という意味ではない

話を元に戻しましょう。


前述のMusicBox等、無料の違法音楽アプリですが、App storeGoogle Playのランキングでは常に上位にランクインしています。グレーゾーンなアプリにもかかわらず、です。ランキング上位なので、人気で、安全で、信頼のおけるアプリであると、思ってしまうことは無理もないことです。


また、こうしたアプリは友人のススメや口コミで使い始める人も多いみたいです。
まさに、ガラケー時代の着うたに取って代わったのは、これらのアプリと言っていいと思います。

 

日本は他の国に比べて、PCやタブレットよりモバイル端末(ケータイ)文化が根強く、音楽以外も含め、通勤通学・移動中等にケータイで何かができる、ということに非常に需要があると言われています。着うたも日本独特の文化です。

 

よって、本来ならば、スマホ移行後は、レコチョクやmoraといった楽曲のダウンロード販売のチャネルからの楽曲購入へお客さんも移行するのが自然な流れと見えますが、そうはならなかった。

 

お分かりかと思いますが、そうしたチャネルから楽曲をダウンロードし、再生するには、さらにそれ専用のアプリ(プレイヤー)をそれぞれダウンロードする必要があり、正直、かなり面倒です。違うチャネルで買ったものを別のプレイヤーで聴くことはできない。
・・・これ、自分で書いていても思うのですが、さほど難しくはないにせよこの仕組みを友人同士の世間話程度に口頭でサクッと説明するのってちょっと厄介な気がします。少なくとも直感的ではない。ダウンロードしたはいいものの、どうやって聴けばいいの?という部分が若干わかりにくい。

 

一方、ガラケーの時には、iモードなりなんなりを開いて、レコチョクでもどこでも、ダウンロードしてしまえば端末のメモリーに入り、すぐさま聴くことができました。

 

ちょっとの差ではありますが、最初にも書いた通り、実は世間一般の若者ってさほどデジタルサービスに詳しいわけでも、興味があるわけでもないんですよね。ただ、物心ついたころから「そこにあった」だけで、知ろうと思って知識を得たわけではないのです。
だからこそ、友人からの口コミで知る程度ですぐに理解できるような、単純で分かりやすいモノ以外は、「なんだかよくわからないモノ」となってしまう。

 

ちなみに、サブスクサービスは、いちいち楽曲をダウンロードして、専用のアプリもインストールして・・・という手間がない点では、実際のところ比較的単純な仕組みだといえますが、1回利用し始めた後やめてしまうと、せっかく自分好みにプレイリストなど、カスタマイズしたところで聴けなくなってしまうため、なかなかやめづらくなる、というリスクがある点はユーザーを漠然と不安にさせる要素の一つかもしれません。個人的には料金プランが複数あることも、「なんだかよくわからない」感をあおる一因にも思えていますが・・・

 

また、蛇足かも知れませんが、今の若者(「今の若者は・・・」なんてつまらない議論ですが)は、無駄を好まないと言います。リスクを取りたがらないというのもあります。
試しにアプリを入れてみるということに対して慎重、日常的に使わないツールはすぐに削除。

彼らのスマホは、友人のオススメやアプリランキング上位のものが最低限並んでいるだけの、思ったよりもシンプルな画面だったりします。

 

意外と、新しいサービスやアプリ、IT技術に色めき立ってすぐに使いたがるのは若者ではなく、「オジサン」たちなのかもしれませんね。

 

ツールは課金するものではないと思っている人々

繰り返しになりますが、やはり日本の若者はモバイルファースト。デジタルネイティブは、自分で調べて知識を得た上でデジタルサービスを利用しているのではありませんから、無駄な手間やものが増えずに、友達に聞いた程度で扱えることがとても大事です。

 

加えて、楽曲のサブスクリプション配信サービスについては、1曲1曲を購入して聴くよりも「ツール」という捉えられ方をされやすいとは思います。本当はコンテンツの集合体なのですが、楽曲を聴くためのただの「ツール」「道具」として捉えるならば、たしかにそれに課金するという発想は生まれにくいかもしれませんね。YouTubeという「ツール」に慣れ親しんでいるからこそです。


純粋に比較すれば、iTunesレコチョクなどで1曲ごとに購入すること、もっと言えばTSUTAYAで5枚1000円でCDをレンタルすることと、月額1000円程度で無数の楽曲が聴けることは、後者のほうが当然圧倒的に割安ですが、「サブスクを使うくらいならレンタルで済ます」という若者も非常に多いようなのです。

 

これは一見かなり奇妙に映る行動ではありますが、彼らはそもそも、前者は「コンテンツ」として、後者は「ツール」として認識しているのではないでしょうか。つまり、前者と後者は、比較対象としてのレイヤーがそもそも異なっている。そのためか、ダウンロード販売やレンタルに対するサブスクの価格の割安感を訴求したところでどうもピンとこないようなのです。

彼らがサブスクサービスと比較対象とするのはあくまでYouTubeやMusicBoxというツールであり、それゆえ「単なるツールがお金をとるなんてバカげている」という感情につながっている。

そうした認識が生まれるのも、若いからといって、「デジタル時代の最新ツール」にお金を払うほど興味を持っていないからなのかもしれません。

 

下の記事の中に出てくるユーザーの声なんて、まさにそんな感情がにじみ出ているように見えます。

(「30秒しか聴けないなんて何様だよ」なんてまさに、「ツールごときが金をとるなんて!」という感じが伝わってきますね!)

 

biz-journal.jp

※下記は、上の記事から引用したユーザーの声

「ずっと無料にしてほしい。 無料期間終わったら30秒しか聴けないとか、何様だよ」
「学割とか何よ。無料で聴かせてよ」
「無料期間にダウンロードした曲も買い直さなきゃならないのか」
「無料じゃなくなったLINE MUSICはアンインストールするしかない」
「今度はAWAの無料お試しに移行する」
「LINE MUSICよりMusicBoxがいい」

 

では曲ごとにダウンロード購入するかというとそうではない。

前述のとおり、やはりこれはガラケーからスマホ移行時期に、ガラケー時代と同程度の分かりやすさを持ったサービスやプラットフォームを生み出せなかったというのは一つ大きい部分かなと感じます。(当然他にも理由はあるでしょうが今回のテーマから逸れそうなので割愛)よって、スマホ移行後こちらのスタイルも上手く根付かなかったと言えます。

 

サブスクに魅力を感じないし、そもそも、なんだか使い方がよくわからない。

ダウンロード販売は、スマホで聴くにはなんだか面倒くさそうだし、どうやったらいいかわからない。

 

――そんな一般的な"デジタルネイティブ"な若者は、結局、グレーな無料アプリやCDレンタルという方法で、満足し切ってしまっていて、あえて新しいものに手を出そうとは思えていない、というのが現状でしょう。

 


ただし、音楽が日常に欠かせない「音楽オタク」的なタイプの人々にとっては、サブスクに関しては重宝されていきそうですね。だからこそ、ローンチ直後に音楽ライター的な人々には騒がれたわけですね。

そうした人々にとっては「インフラ」として機能していくサービスだとは思いますが、やはりそうでない音楽は暇つぶしでしかない人々にとってしてみれば、それに月々支払う必要性は、今のところ感じられないのだと思われます。

 

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ということで、今回は、若者にフォーカスを当てて、課金型のデジタル音楽配信サービスがなぜ彼らに受け入れられないのかを考察しました。

デジタルネイティブと言えど、いや、デジタルネイティブだからこそ、「なんだかよくわからないけど複雑そう、使いにくそう」なイメージを一度持たれると、彼ら若者はもう二度とそのサービスには戻ってはきてくれないのかもしれません・・・。

*1:そうではない、あらかじめ選曲がプログラムされたものを聴くタイプのものを「ラジオ型」と呼び、dヒッツなどが筆頭ですが、今回の記事ではサブスクリプションサービスについては主に「オンデマンド型」を指しています。

*2:日本レコード協会の統計(一般社団法人 日本レコード協会|各種統計)では、有料音楽配信売上データについては2005年以降(着うたの登場は2005年)のデータしかありませんが、こちらを元にすると、2008~2009年ごろの売上が最大(2009年:910億円程度)。うち、着うた比率までは出していません。スミマセン。。目安と思って下さい。

*3:ちなみにiPhone3Gが日本で発売されたのが2008年。以降2010年のiPhone4発売くらいまではスマホはさほど一般には普及していませんでした

cero/Obscure Rideを“シティ”と“ポップ”に分解する(2)“シティ”=わたし達の街の不確かさ、わたし達の見ている「今」

ありふれた日常と普遍の周りを回遊しながら、時折のぞかせる不穏さ。

それは、震災以降改めて気付かされた我々の街の不確かさ。

 

都市という存在そのもののフィクションや空虚、それゆえに内包する不気味さ、それを眺める自分がいま居るここが夢か現実か定かではない感覚(“My lost city”―M11「わたしのすがた」)。

前作“My lost city”のラストに登場するモチーフである「都市の虚構性」にフォーカスを当て、掘り下げた視点が今作“Obscure Ride”の通奏低音となっているようだ。そしてそれこそが彼らの見ている「都市」―“シティ“の今のすがたなのである。

 

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元祖シティ・ポップの「シティ」イメージ

いわゆる元祖シティ・ポップというものについては、「ミュージック・マガジン」2015年6月号において、((さらうんど))のCrystalが以下のように定義しているとし、彼のブログが引用されている。

 

「80年代のある種の日本のポップス。欧米のポップ・ミュージックを消化した洗練された音楽性を志向し、歌詞やビジュアルは、豊かな都市生活とそれを前提としたリゾートへの憧れをテーマとすることが多い」

(「ミュージック・マガジン」2015年6月号―p.36  )

 

 

 

シティ・ポップの指す「シティ」。かつてのそれは、人々の憧れの対象としての、すなわち、一部虚構の空想をも伴った羨望の矛先としての、きらびやかなネオンの輝く「都市イメージ」ということになる。

 

“Obscure Ride”のもつ不穏さの正体

さて、今作“Obscure Ride”だが、よく歌詞を読み進めてみるとその中に紛れ込んでいる、一抹の不穏さや不気味さが我々の目を引く。

特に象徴的なのはM8“Roji”の歌詞構成だ。

特に“Roji”は高城が母と切り盛りしている店の名前であり、その意味で、ここで描かれるなんでもない風景は、彼自身の、自然体の日常を究極的に象徴し、切り取っていると言っていい。

だからこそ、最後のシーンに突如かかってくる不気味な電話によってその風景が冷たく一変する場面には、我々の日常がなんらかの非日常的なものに簡単にアクセスできてしまうような、ある種の不穏さを強烈に印象付ける。

 

それ以外にも本作に収録された楽曲の多くにはたびたび、一抹の不気味さを感じさせるモチーフが、なにげない日常を描く中に突如として登場してくる。

 

影のない人 (M3-Elephant Ghost, M6-ticktack, M11-Wayang Park Banquet)

幽霊・亡霊 (M3-Elephant Ghost, M10-夜去)

街を見下ろす誰か (M9-DRIFTIN')

誰かからの不気味な電話 (M8-Roji

パラレルワールド (M7-Orphans, M8-Roji

どこかへ行ってしまったみんな  (M6-ticktack)

・・・

 

こうしたモチーフに漂うのは、言ってみれば――この世のものではないものの気配だ。

 

前作は「3.11と僕ら」という視点が色濃く投影された作品となっていたが、その日から4年経った今の我々のくらしを俯瞰する視点が時折現れるのが今作、という立ち位置だろう。この世のものではないものの存在感となって立ち現れているのはまさにそれである。つまり、その日常の“もろさ”を。

 

「不確かさ」こそが現在の「シティ」のすがた

彼らは前作リリース時のインタビューにおいて、自らが「シティ・ポップ」と語られることへの違和感を示しながらも、その自身による解釈として「シティ・ポップとは、パラレル・ワールドのことで、表裏一体である享楽と空虚の世界観を表現している」という旨の発言をしている。

 

 高 享楽こそが都市っていうもののいちばんの根源というか。それこそ、シティ・ポップと言われてるものって享楽的な世界観だと思うんですよ。そして、自分の中で、"空虚"は、"享楽"と裏表で。(略)

荒 要するに、シティ・ポップってパラレル・ワールドっていうことですよね。そう考えると、ceroシティ・ポップと言われるのも何となく分かる。

(中略)

高 結局、都市っていうのは残っていくものじゃなくて、最終的には負けるんですよね。一瞬、パッと華やかに存在して、消えていくものなんだと思う。だからこそ、享楽的になるし。何というか、そういう観点で"シティ・ポップ"をやれたら、自分たち特有の音楽になるんじゃないかなって。

 

※高=高城、荒=荒内

引用元:cero / My Lost City 特設サイト 2012年10月24日発売!

 

今作もまたこうした「シティ・ポップ」の解釈が踏襲されていると言ってよいだろう。

だが今作はどちらかと言えば、都市の享楽性よりも、我々が何気なく生活しているこの街・東京の、ふとした瞬間に垣間見えてしまう不確かさや虚構性をその作品の中に忍ばせることに軸足が置かれているようだ。

ブックレットのアートワークにも、都市の風景に影を落としたような写真が用いられていることからもその姿勢はうかがえる。

 

震災から4年経って、我々の街(東京)はまるで何事もなかったかのような日常をすっかり取り戻したようで、それは享楽と言っていいのかもしれないが、甘い蜜に浸かりながら生きている。そうした生活は、簡単に崩れ去りかねないのだ、ということを4年前に気付いたはずなのに、である。我々の日常はいつだって危うさや非日常と隣り合わせで、この享楽というすがたをしているのは虚構で、そして我々は空虚の中で息をしているのかもしれない――

それが彼らの描くパラレル・ワールドのシティ・ポップなのだ。

 

ブラックミュージックオリエンテッドなスムースな響きに耳を奪われがちな今作だが、歌詞を追っていくと、今自分の生きているこの街・この日常のほうが、本当は夢や虚構かもしれない、という感覚に襲われる。

それはまるで、こちらとあちらの境界、すなわち、平穏で平凡な甘い日常と緊張感と不穏さをはらんだ非日常の境界は、我々の思っているよりずっと曖昧な(=“Obscure")ものなのではないか、という投げかけのようでもある。

 

都市の享楽―都市に住む我々のごくありふれた日常―がわたし達を覆い以前となにも変わらないように生きていても、あの時気付いたはずであるその不確かさや虚構性であったり、危うい世界との境界は実に曖昧で簡単に乗り越えられてしまうことが、東京に住む彼らによって肌で感じながら描かれているという点において、この“Obscure Ride”はまさに現在に更新された究極にありのままの、「シティ」の音楽なのだ。

 

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今回の続き記事にした「cero/Obscure Rideを“シティ”と“ポップ”に分解する」の3回を通じて、ceroは「シティ・ポップ」と呼ばれるべきなのだ、ということをまとめとしておきたい。

もちろんそれは、80年代のシティ・ポップとは意味合いが異なる。

 

・「シティ」=現在の都市を生きる彼らが感じ取る、街の不確かさという意味での「虚構性」

・「ポップ」=メインストリーム化したロックとは違うものを志向するという意味での「対抗文化性」

 

こうした要素を同時に持ち合わせているからこそ、「新しい」という形容詞を冠するという前提において、cero/Obscure Rideは、まごうことなきシティ・ポップ」なのだ。

 

cero/Obscure Rideを“シティ”と“ポップ”に分解する―(1)“ポップ”=対抗文化性

初めに…このエントリーの内容はもうとっくに考えてはいたのですが、私がぐずぐず文字に起こしかねている間に、ほぼ同じ論旨の記事を金子厚武さんが書かれました!笑


良く考えれば私がこの記事を練るのにおおいにヒントになった記事の1つが金子厚武さんによるものなので、そういう意味では至極当たり前なのですが。

・・・ということで大変二番煎じ感がハンパないのですが、恥をしのんで書きたいと思います。。
著名な(私も好きな)評論家さんと意見を同じくしているということは、逆に安心感もあるものですね。

www.cinra.net

そんなわけで上記の記事と似たような結論には落ち着きますが、
ただ一応、これまでポピュラー音楽における「日本の内と外」という観点を論じてきたので、その切り口から、小沢健二/Eclecticに影響を受けながらもなぜ“Obscure”という言葉を選んだのか、そしてバンドブームと渋谷系の関係性、などといった点について、

「J-POP」というものを軸にしながら、上記の記事よりもう少し丁寧に掘り下げたいと思います。

 

今回は長いです。。お付き合いください・・・

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■“Obscure”の意味

さて、本作がブラックミュージックを積極的に取り入れたものであることは各所にて言及されている通りであり、あえて今更言うまでもない。

だが一方で、その要素のすべてを取り込んでいる訳ではないこともまた事実であり、その点については下記記事で言及されている。

 

realsound.jp

 

ブラックミュージックといえばブラザー&シスターであり、性でありっていう、そこはひとまず置いておいて、とりあえず「構造を取り出す」ということに主眼があって。あくまでもやっている人間のパーソナルは変わらないわけだから、歌の内容に関しては地続きであっていいんじゃないかなって。荒内発言より抜粋

 

精神性や宗教・思想、文化的な違いについてはあえて足をつっこまず、楽曲の構造のみ取り出すという換骨奪胎―それはつまり、そもそも自らは「ホンモノ」ではない、「ホンモノ」にはなれないという認識のもとに立っているからこそである。
前記事で言及した、小沢健二の“Eclectic”との違いはまさにこの点である。

 

歌われる内容までもブラックミュージックに限りなく近づけていくことを試みた小沢健二の“Eclectic”に対し、本作は「日本人である自分たちはやはり決して『ホンモノ』ではない」という自覚をむしろ積極的に捉えている。

そして、ガチガチに「ホンモノ」に縛られないからこそ生まれるホワイトポケットの存在が、ポップスの解釈の幅を広げ再構築することに大きく寄与していると言えるだろう。

thesignmagazine.com

 

R&Bやヒップホップのマナーの消化が間に合わなかったとか、スキルが追いついていないということでは断じてない。意識的に間に合わせない、追いつかせないことから生まれる自在な解釈と創作性に、彼らはロマンティシズムを感じているのではないだろうか。(岡村詩野レビューより抜粋)

 

そしてそれは、日本においてブラックミュージックを体現しようとし、だが結果的には(図ってか図らずか)「どこまでいっても『ホンモノ』にはなりきれない、モノマネに過ぎない」という自意識をある種の孤独感とともに提示することとなった小沢健二の“Eclectic”の存在を前提としているからこそ成立するものであったのだ。

 

岡村詩野氏も上記のように言及している通りだが、

「ホンモノ」を真摯に研究・追求しながらも、すべての要素において「ホンモノ」に縛られず自由な解釈を与えていくという点において、二項対立のモノを合体させようとする意味での“Eclectic”ではなく、

あくまで一方のモノを、別のモノ(つまり自身の生活感 ※この点は次回のエントリーで言及予定)に引き寄せていくことで、「二つのものの境界を曖昧にしていく」という意味で“Obscure”というタイトルを冠していると考えるとその意味が改めて腑に落ちる。

 

■メインストリームと化した「ロック」へのカウンターとしての「ポップ」

「J-POP」の成立については、前回・前々回にて軽く触れた通りである。
総称としての「J-POP」が日本製のポピュラー音楽を覆い、我々はそれまで連綿と命題とされてきた「洋楽への憧れ」(※欧米のように独自のポピュラー音楽カルチャーを日本に生み出すこと、という解釈である)を放棄することとなり、それは結果として、ポピュラー音楽の“J”化を加速させた。

すなわち、独自のポピュラー音楽カルチャーを生むための試行錯誤をやめたことによって、日本製のポピュラー音楽はある種の様式化を見せていく。

 

またその現象は、ロックカテゴリにも浸食した。
日本製のロックミュージックの、とりわけ若手のアーティストについて「ロキノン」という呼称が一般的になり始めたのは、おおよそ2000年代半ばのようである。そしてそれとほぼ同義として“J-ROCK”という言葉も使われるようになっていく。

 

※ちなみに「Yahoo!知恵袋」で「ロキノン」と打ち込み検索をかけると、「ロキノン」が含まれる投稿は2008年から急増しているため、少なくとも2008年頃にはすでに一般的な用語として浸透していたように思われる。(2004年:2件、2005年:9件、2006年:2件、2007年:13件、2008年:45件・・・ただし若干の誤差はあろうと思われる)


偶然か、あるいは当然の結果か、小沢健二の“Eclectic”と入れ替わるようにして同時期から日本製のロックミュージックの一部が“J-ROCK”としてカテゴライズされ顕在化、存在感を強めていった。そして現在に至る。

 

そんな中、ceroは本作においてこれまで自らの“contemporary exotica rock orchestra”という看板を降ろし、あえて“contemporary eclectic replica orchestra”という看板を掲げた。

“rock”から“replica”への変貌の意味するところ、それがすなわち、今日の“J-ROCK”化した―意地の悪い言い方をするならば、様式化した―日本製のロックミュージックカテゴリへの揺り返しである。

 

上記に挙げた以前の記事においてAwesome City Clubが「速くて、四つ打ちで、一体感を煽るような」昨今、メインストリームと化したロックバンド群に明確な違和感を呈し、

その上でブラックミュージックをバックグラウンドとした楽曲を展開、それでいてポピュラリティを重視していることを指摘したが、それと似たようなことがceroについても言えそうである。

 

すなわち、メインストリームと化しながら様式化したものが今日の日本の「ロック」ならば「ロック」でなくていいという意味での、「非・ロック宣言」としてceroの“R”の“rock”から“replica”への変貌を位置づけることができる。

だからこそ、彼らのやっている音楽は、広義の意味での「ポップ」―すなわち「ロック」ではないものという意味での、「ポップ」なのである。

 

さらに、そのスタンスのことをあえて“replica”と自称することは、様式化した「ロック」はもちろん、自身も含め、いずれにしても「ホンモノ」ではないのだ、という日本のポピュラーミュージックの原点に我々を引き戻す作用を持っているようにも感じられる。

 

 ■カウンター性からみる渋谷系との類似点

なお、こうした、タコツボ化・様式化しメインストリームとして消費されるようになったロック風のカテゴリの一群に対して、「ポップ」というスタンスによって、それらと距離を置くオルタナティブなあり方を体現したという点において、今日の「新しいシティ・ポップ」は渋谷系と相似形をなしている。

(このことは、以前のエントリーでも言及済みである。)

seaweedme.hatenablog.com

 

様式化した「ロック」に対し、楽曲の構造に着眼し、真摯に向き合うことによって新しさを生み出そうとする今作におけるceroの姿勢についてはここまでも引用してきたものも含む、下記のようなインタビューの中に見受けられる。

www.cinra.net

realsound.jp

 

金子厚武氏は「新しいシティ・ポップ」と渋谷系の相似について、田島貴男のインタビューを用いて提示している。私もその部分を引用しておくことにしよう。 

www.cinra.net

2010年ぐらいまでは、ロックらしい音楽が長いことブームとして続き過ぎたというか、渋谷系が出てくる前の状況と似ている気がしました。渋谷系が出てくる前も、破壊的、ロック的なインパクトがあるイメージを打ち出しているけれども曲は工夫されてなく、そんなに面白くないバンドが多かった。(中略)

きっと渋谷系の人たちは、その反動で楽曲主義の人が多くて、アーティストの気合いとか物語性とかよりも、曲の構造をこだわって作る人が多かった。やっぱり今の状況と似てる気がするんですよね。 (田島貴男発言より抜粋)

 

また、大衆音楽研究の分野において現在第一線で活躍する輪島裕介氏が、「ユリイカ『特集 はっぴいえんど』」(青土社、2004年9月号)に寄稿した論文において、90年代以降のはっぴいえんどの再評価の過程を示す中で、渋谷系について以下のような指摘をしている。

意識的に「ポップ」なスタンスを取ることによって逆説的に現代的な「対抗文化」の真正性を確保しようという意志も窺える。


「ピチカート・ファイブは様式化したロックに対する対抗として、フリッパーズ・ギターは様式化したパンクに対する反発として生まれた『ネオアコ』に影響を受けて、出発したに違いない」(後者は編集者/ライター 川勝正幸氏の著書の引用)

「『はっぴいえんど神話』の構築」―ユリイカ『特集 はっぴいえんど』(青土社、2004年9月号)、p.188

 

すなわち、「イカ天」を軸としたバンドブームの肥大化とロックミュージック(のようなもの)の裾野の広がり、またそれに伴った、内実を伴わない有象無象のロックのフォーマットを踏襲したバンドの出現(中には当然、後に影響を及ぼすようなアーティストも存在したが)、そしてそれらが泡沫のように消えていったこと―

そういった事象に対するカウンターとして、当時の渋谷系を位置づけることができるということである。

そして、その状況がここまで述べてきたような今日の「日本のロック」をめぐる状況に似ているということを指摘することができるというわけである。

 

Awesome City Club然り、cero然り、「新しいシティ・ポップ」と呼ばれるアーティスト群の「ポップ」の要素とはすなわち、このように対抗文化性に依拠するものと捉えることができるのではないだろうか。

 

■単なる相似形とは言い切れない「新しいシティ・ポップ」と渋谷系の関係

ただし、留意するべきは、渋谷系は金子氏の指摘のように、バンドブームに対する、その様式化へのカウンターとしての側面を持つ反面、

当時のバンドブームは、英米のロックのような、歴史とバックグラウンドを持った日本独自のカルチャーが生み出されることへの期待感もまた背負わされていたということ、

そして、しかしながら、バンドブームはその名の通り一過性のブームとしてあっけなく収束したため、そういった期待の挫折を招いたという部分である。

 

そのような状況を受け渋谷系は立ち現れ、例えば、原曲の文脈から切り出してコラージュしてしまうような、フリッパーズ・ギターのような手法を通じて、英米のロックのようなカルチャーを生み出すという日本のポピュラー音楽の長年の命題の無効化を、やってのけてしまったわけである。

そして、そのことがJ-POP成立の1つの契機にもなったという側面もまた、渋谷系は持っている。(以下記事参照)

seaweedme.hatenablog.com

 

よって、対抗文化性という側面のみ切り出せば、今日の「新しいシティ・ポップ」は渋谷系と相似形という具合にも見えるが、

一方で「新しいシティ・ポップ」のカウンターの相手である“J-ROCK”はJ-POPの枠組みの中から誕生したカテゴリであることを考えると、

実は、それら4者の関係は、以下のような関係にあるとまとめられる。

 

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私は先に、ceroの本作について「自身も含め、「ホンモノ」ではないのだ、という日本のポピュラーミュージックの原点に我々を引き戻す」ものであると書いたが、とはいえ、だからこそ彼らは日本ならではのオリジナリティ(=カルチャー)を追求していることは留めておかなければならない。その意味においても、渋谷系とは若干趣きを異にする部分であろう。

 

「対抗文化性」の側面を紐解くと、様式化への対抗と、「ホンモノ」ではないことを受け入れながらもその境界を“Obscure”にしていくことでなんらかのオリジナリティ(=カルチャー)を生み出そうとする2つの側面が(それぞれ一部重なり合って)浮かびあがってくる。

 

 

なお、「新しいシティ・ポップ」は「同時代性」という点においても渋谷系と共通している部分がある。次回はその点を掘り下げながら彼らの“シティ”の側面を見出していきたいと思う。

 

cero/Obscure Ride を“シティ”と“ポップ”に分解する [続・ニッポンの内と外] ― (0)小沢健二/Eclecticの「イビツさ」についての一考察

 ceroの3rdアルバム”Obscure Ride”が約1ヶ月ほど前にリリースされ、各所で絶賛を浴びているのは周知のとおり。

 

Obscure Ride 【初回限定盤】

Obscure Ride 【初回限定盤】

 

 

このリリースに絡んで当然、多くの言説が生まれているわけであるが、とりわけキーワードになってくるのが(その用法の賛否含め)「新しいシティ・ポップ」という言葉だと言ってよいだろう。

 

 今回は、それらの言説をもとに、あえてこの”Obscure Ride”を「シティ」と「ポップ」に分解して考えてみようと思う。

  この作品の、さらには一歩俯瞰して、この「新しいシティ・ポップ」というムーブメントの「同時代性」と「対抗文化性」―その意義を考察するのが今回の狙いである。

 

小沢健二/Eclecticの抱えていた「イビツさ」の正体

 各所で述べられている通りであるがcero/Obscure Ride は小沢健二/Eclecticに影響を受けた作品となっている。(この点については他が詳しいのでここではあえて説明しない)

 

 下記のcero/Obscure Rideの宇野維正氏のレビューだがここで語られる小沢健二/Eclecticとの関係について興味深い点があった。

thesignmagazine.com

2002年の小沢健二が、あの奇跡のように美しく、どうしようもないほど孤独で、少々イビツな作品に『Eclectic』と名付けたこと。当時、自分はそこにどこか失意や絶望を帯びたニュアンスを感じ取らずにはいられなかった。

 

 私はこの小沢健二/Eclecticにおける「孤独」や「イビツ」さ、「失意や絶望」という点についてそのゆえんを探してみることにした。

 そして1つ、思い当たったのが、この作品の特徴とも言える、女性コーラスの存在感だった。

 

 本作品はすべてアメリカでレコーディングされており、コーラスは現地のアメリカ人によるものである。それゆえに歌詞そのものは片言のように聴こえ、意味をもった日本語として浮かび上がって来ない、どちらかというと「楽器としての音声」といった印象を聴き手にもたらしている。日本語の歌詞ならば日本人がコーラスしてもよかったはずなのだが、なぜこうした効果を狙ったのだろうか。

 

 実はそれこそがこの作品の「失意や絶望」という側面を深く表現しているのではないだろうか。

 

 “Eclectic”は日本人が日本人として忠実にR&Bを具現化しようと試みた作品であると言ってよいだろう。

 前の記事で述べたように、ポピュラー音楽において輸入国である日本は「洋楽」に対して「追いつかなくてはならない」というテーゼを自ら長年掲げ続けてきたことによって、その歴史を発展させてきた国である。(下記参照)

当然、ブラックミュージックについてもある種の憧憬を抱いてきたことは間違いない。

 

seaweedme.hatenablog.com

 

 だが一方で、一般的に、どんなに忠実に再現できたとしても、どうしても残ってしまうわだかまりがある。

 宇野氏も先のcero/Obscure Rideのレビュー内で以下のように続ける。

一方、ceroは今作を『Obscure Ride』と名付けた。「折衷」と「曖昧」。いずれの言葉も、非黒人ミュージシャンがブラック・ミュージックの(イミテーションではなく)本質に近づけば近づくほど何度も不意に襲われるに違いない、ある種の「後ろめたさ」を表しているようにも思えるのだが(以下略)

 

「どんなに上手く演奏を再現しても、背後にある歴史や精神性はトレースできない」。

そう、この壁を、厳然として超えられないという一面も否定できないのだ。―それは小沢健二に限った話ではなく。

 

 つまり、翻って、小沢健二/Eclecticの中の、あの、違和感のある現地アメリカの人による片言の日本語のコーラスというのは、

実は、ポピュラー音楽における、我々の、黒人への憧憬のまなざしを反射させるがごとく、逆説的に表現したものなのではないだろうか。

 

 我々はポピュラーミュージックの分野において、黒人を、ひいては「洋楽」の担い手である欧米の人々を、憧憬とともにまなざす立場であるわけだが、

その事実を「違和感のあるアメリカ人の日本語のコーラス」、すなわち、欧米の人々が我々日本人をまなざし「返す」という視点を、作品の中に組み込むことによって投影させる、という企てが小沢健二/Eclecticという作品の内包する構造のひとつと言っていいだろう。

 

 J-POPという言葉が当然のように浸透し、日本のポップスにおいて「洋楽」に「追いつく」ことが長年のテーマであったことがすっかり忘れ去られた2002年当時、愚直に、日本人として、ブラックミュージックを体現しようとしたという点において、小沢健二/Eclecticは非常に希有な作品だということは、言うまでもない。

 

 だが反面、どんなに上手くやれても、日本人の自分には、歴史や精神性までは再現できないというジレンマ―どこまでいっても「ホンモノ」にはなりきれない、モノマネに過ぎないという自意識―

その物悲しさや虚無に、小沢健二は、自らの孤独を見、ほんのすこし皮肉めいて、日本とブラックミュージックの、「折衷」― “Eclectic”と名付けたのだろうか。

 

 

 日本のポピュラー音楽は、美しくだが物憂げな、この小沢健二/Eclecticという希有な作品が世に出て以降約13年間、その失意を抱えたまま、良くも悪くもいわゆる「ホンモノ」と向き合う積極的な姿勢の沈黙を見続けていた。

 そんな状況の中リリースされた、ceroの“Obscure Ride”という作品のもつ意義はどう捉えることができるだろうか。

 次回更新以降でいよいよこの本題に入っていきたいと思う。

 

 

 

 

補論: “J”という記号、ニッポンの内と外

次はceroの話をすると言っていたのですが、

一旦、短い違う話を書くことにしました。

でもこれは次の話をするのに、しっかりつながってくる話なのです!

 

新しい“シティポップ”と渋谷系について書いていくつもりなのですが

ここでその下準備を挟もうかと思います。

 

そもそも日本のポピュラーミュージックの歴史というのは、

明治以来、「日本の内と外」という二項対立的構造の意識の中でつむがれ続けているものではあるのですが

今回は“J-POP”と日本の内と外の関係を断片的に拾い上げます。

 

よってそこまでの歴史は全く今回は説明しきれないのですが

渋谷系ブームとも前後する、“J-POP”の誕生を起点に非常にざっくり!まとめてみました。

 

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“J-POP”とはご存知の方も多いと思うが

90年代の初め、当時、洋楽しかかけなかったJ-WAVEが、日本のポピュラーミュージックをかけるにあたって、

「欧米に比肩する日本製のポピュラー音楽」

という意味で編み出した言葉とされている。

 

明治からその時点まで、欧米の音楽を吸収してその過程でオリジナリティを創り出し「世界に認められる」ことが1つの命題であった日本のポピュラー音楽のあり方というのは、

“J-POP”という言葉が生まれたその瞬間もなお、「進んだ欧米/追いつけない日本」構図を下敷きにしていた。

 

ということはつまり、“J-POP”というのは、「欧米に比肩している」という内実よりも、言葉のほうが先に作られた概念なのである。

 

そのことがなにを示すか。

“J-POP”という言葉が生まれたその時点において「日本製のポピュラー音楽は欧米に追いついた」ということに“してしまった”ということだ。

 

もちろん、この考え方は、日本はポピュラー音楽において「文化輸入国」であり後発国であるという前提に立ったものである。

 

その前提はひとまず認めるとしよう。

 

そうすると、自らの「世界に認められる」ことを1つの大テーマに持ち続けた日本製のポピュラー音楽のあり方というのは、

“J-POP”という言葉が生まれたことで、むしろ海外を指向する必要性がなくなったわっけである。

 

よって“J-POP”という呼び名で呼ばれるようになったことを起点に、日本製のポピュラー音楽は、ドメスティック性を深める方向にシフトしていったとも言える。

 


さて、ここまでが“J-POP”成立前夜の話だとし、そこからざっと20年強が経った現在の日本である。

“J-POP”がすっかり浸透し海外に憧れを抱く必要性がなくなったからか、

人々は“J-POP”で自給自足すれば満足できるようになった。

(若者が洋楽を聴かなくなったと言われるようになってからも久しい。)

 

海外を指向しなくてよくなったはずの日本製のポピュラー音楽“J-POP”は、

今、自らを海外に売り込もうとしている。

 

それは、ひとつには、国内の少子高齢化、市場の縮小を見込んだ単純明快なグローバル戦略とも言える。

 

だが一方でBABYMETALや初期のきゃりーぱみゅぱみゅなどは、ただ海外でウケた、というだけでなく

そのことを「欧米でも人気!」といった具合に、逆輸入的に見せるやり口が、日本国内でプロモーションとして効いた、という話も聞く。

 

“J-POP”だけ聴いてればOKという通奏低音もしっかりあるのだが、

しかしながら「進んだ欧米/追いつけない日本」という構図意識もいまだに我々の中にはしっかりと根を張っているのではないだろうか。

「欧米=ホンモノ」という意識がやはりいまだに根強くあるからこそ、

「欧米のお墨付き」という黒船宣伝効果はそれなりに効果を発揮するのだと言える。

 

ただし、この「欧米のお墨付き」は、果たして「欧米に同等として認められた」ことと等しいと言ってよいのだろうか。

いわゆる“COOL JAPAN”であったり、“J-〇〇”として海外に注目をされるそのあり方というのは、

述べてきたように、日本がポピュラー音楽において“J-POP”という言葉でもって「鎖国」をしたことで、

日本人にしかウケないニッチで独自な方向性を突き詰めた文化が(それが国内ではタコツボ化を招いている一因でもあるのであるが)

現地で、ある種のエキゾチズムをもっておもしろがられている、という側面も強いのではないだろうか。

BABYMETALやきゃりーぱみゅぱみゅなども言ってみれば現地ではサブカル的なおもしろがられ方であって、決して王道として評価されているわけではないとも聞く。

(BABYMETALはメタルレジェンドなどに孫のようにかわいがられSNSなどに投稿されるから注目されがちなのであって、実は実際のメタルファンからの支持はごく一部である、とも聞いたことがあるが果たして・・・。)

 

 

要は結局、私たちはこの“J”という厄介な記号を纏うことで

この20数年、「ホンモノ」というその超えられない壁にお手上げして開き直ってきたのではないだろうか、などと考えてしまうわけであった。

 

さて、この前提をもって、

ceroの新譜“Obscure Ride”のキーワードである

“Obscure(曖昧)”と“Eclectic(折衷)” 、そして“Replica(模造)”の意味に迫ることができそうである。

 

ということで、次回こそ、やっと本題に入ってゆきます。

 

「ネオ・シティポップ」という新しいカウンターカルチャーの在り方の可能性 ―(4)戦略性は「悪」なのか

前回から間が空いてしまいましたが、

ACCが活動をしていくにあたってのその戦略性にフォーカスが当てられていることに嫌悪感を抱く人がいるのはなぜなのか、という前ふりを1回目でしてしまっていたので最後にその点について考えていきます。

 

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ACCの戦略性自体はシーンに対する一種の対抗的態度なのではないだろうか。

 

「友情」「努力」で人気者になるという「勝利」を手にするというモデルが理想化されたロックフェス的バンドは、そのプロセスの「純粋な地道さ」が、ファンからの求心力となっている節がある。

「大人たちに対する我々若者の気に入らない気持ち」を代弁することをコアメッセージにしているバンドたちだからこそ、

裏を返せば、リスナーの側も、彼らが成功しているのは「大人の事情」などではなく、純粋な努力によって地道に力をつけた結果だ、というサクセスストーリーをバンドに求め、

そういったバンドにさえ多かれ少なかれあるであろう「商業的な戦略」という側面を、自らの中で都合よく不可視化しているのではないか。

(周りの「大人たち」の意思もあるだろうが、100%本人たちが操り人形だということもないだろう)

 

だからこそ、メンバー自身から、プロモーションや戦略などという「商業的な臭いのする」「大人の汚い手」を使うことが喧伝されることは、リスナーから嫌悪感を抱かれやすいのではないだろうか。リスナーにしてみれば、信じていたモノの見たくない部分を見させられているようなものなのだから。

 

似たような例でいえば、クラムボンのミト氏が3月のアルバム発売の際にインタビューが想起される。

realsound.jp

 

ミト氏による、

アーティストもプロモーションに関わっていくべきだという内容の発言、

あるいは、クラムボンのメンバーもリスナーが想像しているように仲良しこよしで楽曲を作っているわけではない、という点が明らかになった発言、

はかなりの波紋を呼んだ部分であった。

 

このインタビューでクラムボンが嫌いになったというつぶやきも見かけた。

(おおかたの人からは賛同されてはいるのだが。)

 

 ※ツイート日は上記記事がアップされた日付かつ当該アルバムが発売された日付である。

このつぶやきではインタビューを読んで嫌いになったのか、そうだとしたらどの部分を読んでそう感じたのかは定かではないが、雰囲気だけはわかってもらえればと思いあえて引用させてもらいました。

 

 

それは1つには、リスナーがバンドに抱く「メンバーの友情」という理想が否定されたからではないだろうか。

このミト氏のインタビューは、アンチテーゼというより、そうでもしなければ、ポップスのシーンで戦っていけないという切実さを伴うものであったが、

いずれにしても、自身のバンドに対するドライで冷めた姿勢をあけすけにするというのはリスナーの理想を打ち砕くのには十分、ということが分かる事例である。

 

ACCについての記事の多くは、音楽的な側面を取り上げていないからダメだ、というGotchのような意見もあろうが、

彼らに関しては再三指摘してきた通り、戦略的でドライなあり方をある種、他の昨今のバンドにはない武器として打って出ていこうという姿勢が見られ、それ自体がシーンに対する反骨精神、アンチテーゼであるという点で、特記すべきことだとも考えられる。

(この点は、(1)~(2)で細かく分析してきたのでぜひ読んでいただければ。)

 

seaweedme.hatenablog.com

 

seaweedme.hatenablog.com

 

「戦略的でドライなバンドのあり方」を見て不快になる人というのは、

「友情」「努力」で人気者になるという「勝利」を手にするというモデルが理想化されたロックフェス的バンド、という

(こうした言い方が許されるのであれば)いわば「古いスタイル」に執心する古いタイプのリスナー…少なくとも、これまで述べてきたような新しいカウンターの波に未知の違和感を抱きながら眉をひそめ困惑している人々なのではないだろうか。

 

そもそも、そうした今のロックフェス的バンドの大きなルーツである00年代の邦楽ロックバンドの代表格がGotch率いるアジカンというところもなんだか、示唆的である。

とはいえ、そういった新しいシティ・ポップのバンドたちの音楽性には高い評価をしつつも、アジカンGotch)自身は、ここにきて改めて「王道のロック」にて彼らを迎え撃とうとしているのではあるが。

 このことはまた機を改めて書きたい。

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次回からはAwesome City Clubから離れ、この「新しいシティ・ポップ」の流れをカウンターカルチャーという視点から掘る作業をもう少し続けてみたいと思います。

そして次に題材に選ぶのは、今ホットなceroを予定しています。

 

なるべくホットなうちに間をあけずに更新したい・・・!応援よろしくお願いします!