5/20 D.A.N.ワンマン"Cirtain"@WWW を観てきました。
ROTH BART BARONとD.A.N.が私の年間ファーストプライオリティ。
— seaweedchan (@hiyocombuu) 2015年10月20日
当時から大好き、激ハマりしていたわけですが、音源のクオリティについては同年代において、正直レベルがケタ違い。
また、楽曲のアプローチもまるで新しい。
いわゆる東京インディー界隈に括られることが多いですが、「東京のインディーズである」こと以外においては非なるものだと思っています。
このへんの話については別にレビューをするとして……
今回は、初ワンマンの感想のみです。
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5/20 D.A.N. "Cirtain"@WWW
実はこれだけ推しておきながら、どうも日程の相性が悪いのか(?)、個人的には今まで一度も観る機会に恵まれなかったD.A.N.。
そもそもライブの数が増えてきたのが今年に入ったあたりからなのだが、
すでにフェスやイベントで観たお客さんに絶賛されて着実にファンを増やしつつあった中の初ワンマンとあって、会場の観客の期待感は相当みなぎっており、
それゆえの独特な緊張感と興奮の入り混じった空気の中のスタート。
彼らの楽曲は、全体的にローな曲調が多いものの、音源を聴く限りでは音のレンジ幅を意図的に狭めているためか、柔らかい質感の統一感がなんとも美しい。
その淡々としてなんとも食えない耳触りが、冷たくはないが熱くもないという独特の心地よさを引き出しているわけだが、
最近聴いた新譜:agraphとThe fin. (´-`).。oO(電子音のテクスチャーってやつは奥が深いですね。)
音楽の聴き方とビジネスの仕組みについて書くのもちょっと疲れてきたので、
これまでほぼやったことないんですが、
練習と備忘録がてら、レビューもどきのようなものをぶち込んどこうと思います。
やってみると、音楽性の評価のための視座や知識であったり、
過去や現在の他の音楽との連関など、
まだまだ考えるべき切り口の引き出しが少なすぎるな、と痛感しました、、
なので、レビューっていうか、ただの感想文です。
そんなわけで、最近(といっても1~3月)に聴いたものから抜粋しました。
本当は他にも聴いてますが、書き起こしたのはとりあえず2作です。
あまり意識してなかったんですが、選んだ2作はどちらも電子音のテクスチャー(質感)のつくりに惹かれた作品でした。
(余談ですけど、エレクトロニカって、一言でくくるとあまりに幅が広い定義になってしまうくらい、要は細分化されたジャンルなので、どういうものを指しているのかについてどう言葉にしようかいつも悩むんですけど、まあ自分の好きなのはこの類のやつです。)
文体は探り探りですが…ちょっとカッコつけすぎました(爆)
まあそれくらいしか特徴をつけられなかったので恥をしのんでそのまま晒しときます。
agraph / the shader
メーカー: BEAT RECORDS
発売日: 2016/02/03
擦りガラスを通して外を眺めているような、あるいは深い水中から水面を見上げるような、とでも言うような、ともすれば単に音が悪いようにも感じられる音像、という印象の作品。音の鳴っている場所とそれを聴いている自分の間に確固たる隔たりを感じさせる。
前作、前々作の延長になることを意図的に拒んだという今作はたしかに、どこか人懐っこさのあるコロコロとした音像でもって色彩感たっぷりに情景を描いていたこれまでから一転、抽象度の高さで聴き手を突き放している。
そのように突き落とされた深いところで鳴っている音の、息苦しいほどにまとわりつく密度の高さ。気の遠くなるほどに塗り込め重ねられた音の群像が、あたかも物質的なかたまりが確かにそこにあるかのような重力を楽曲に持たせている。
ノイズだけで40トラック近く重ねられているというように、決して音量が大きいわけではないのに、曲中のノイズの厚みのせいかその対比で曲間の無音部分にはっとさせられ、そこでやっと息継ぎができるような、そういう重たさがある。
ねっとりとした音の質感、その配置、各トラックの音の浮き沈み、それらの組み合わせは有機化合物の構造のような複雑さ。本人もインタビューで語っていたように、これは楽曲というよりも遠ざかり俯瞰することで見えてくる 「構造物」に近いのかもしれないと思う。
これは良い意味だが、 はっきり言ってこの作品は「なにも伝えていない」。「音の鳴っている場を構築する」という、文字面だけ見るとなんとも茫洋とした、メタ的な取り組みなのだ。
とはいえ、浮き沈みしながらも現れるメロディに感じる叙情性がこの手のジャンルの陥る難解さをギリギリ回避しているようにも感じられ、そういった意味では前作までのドラマチックな側面もまた引き継がれている。しかしその叙情性は、言語にはならない感情の起伏を表現しているに過ぎないのかもしれない。
多すぎる言葉が時に軽々しい作品の氾濫する昨今において、メッセージ性から遠くかけ離れながらもめまいのするような情報量で息もつかせない怪作。
agraph - greyscale (video edit)
比較的前作までのメロディアスな特徴の強いM3。とはいえ「構造」を表現するという意図はこのMVにもよく表れていると思います。
The fin. / THROUGH THE DEEP
メーカー: HIP LAND MUSIC
発売日: 2016/03/16
多くのバンドは世間に知られていくにつれて多かれ少なかれ、保守的に、すなわちポップで分かりやすい方向に向かいがちだと思っている節があるのだが、彼らはその真逆だ。
どちらかというと歌のメロディを中心に据えて構成されていた前作までの楽曲群と打って変わって、今作はよりポピュラリティから離れたエレクトロニカに傾倒している。
新人でありながらより多くの人に受け入れられる方向付けではなくニッチなジャンルへ向かっていくのはあまり例を見ない、と個人的には思う。
前作までも、浮遊感のある打ち込みやシンセの音飾も使われていたわけだが、個人的にはその2つの音の質感はぶつかってケンカしているように感じていた。
また、前述のとおりどちらかというと歌のメロディを中心に組み立てた上でエレクトロニカ「風味」に寄せて仕上げたような楽曲が多かったように思うが、それゆえか作品を通して聴くと曲のバラエティに欠ける印象があった。
今作、特に変化があったのはおそらくビートの部分かと思う。前作のアルバムは4つ打ちの生ドラムが基本であったが、今作はよりエレクトロニカ的な側面を核にして聴かせていくにあたってか、生ドラムだけでなく打ち込みの音飾のビートも交ぜ、拍を細かく積み重ねている。タメをしっかり作った後ろノリが心地よい。
音飾、その重ね方にも試行錯誤を感じた。たくさんの音を重ねて空間を埋めるのではなく、必要な音を必要な箇所にミニマルに使うことで、前作までの楽曲よりむしろ奥行きが出ているし、音の質感、リバーブのかけ方のニュアンスも丁寧。
ジャリジャリとしてやや存在感のうるさかったギターの音も自然に溶け込んで、全体としてドリーミーなやわらかさが出ている。
本人インタビューではエレクトロニカの中でもアナログなものを好んで聴くと話されていたとおり*1、目指す音楽性自体は前々作、前作とあまり変わっていないとは思うが、今作ではその、電子音であたたかみのある音像を描き、生のバンドサウンドとの調和をとるアプローチがぐっと洗練されてきた。
彼らの表現したい世界観がとても立体的に見えるようになっており、今後の方向性を示唆する象徴的な位置づけの作品になるはず。
蛇足だが、やはり、英米からすると、どうしても日本(をはじめとするアジア)はロックミュージックの分野においては、後進的に見えてしまうという壁が越えられない現状があるように思う。
それはロックミュージックの成り立ちや日本での受容の歴史上、ある程度仕方のない部分ではあるが、一方こうしたエレクトロニカ色の強い音楽は言語や思想、社会基盤などに依らないことが多いため、「ボーダーレス」を比較的担保できるのかもしれない。
彼らはまだまだ若手でありながら、ダブリンでのMV制作やUK盤リリース、SXSW出演、USツアーなど、海外での活動を意図的に並行して行っているが、今作での音楽性の変化も、ワールドワイドを意識した拡張性のある音楽を志向した結果なのかもしれないとも感じた。
タイトルでもあるリード曲のM3にびっくりしました。ビートが洗練されてます。
あと、女子がかわいい。。最後が「蝋人形の館」っぽい展開なのは謎。
*1:ROCKIN' ON JAPAN 2016年5月号
モダンタイムスの歯車が加速している、エンタメ業界
わたくし先日、ザ・ロキノン大好き系現役大学生と出会う機会がありまして、話をしたところ「最近のバンドの移り変わりが早くて追いつけない」とのことらしい…。
大学生でソレですか。。
さて今回は
歌番組の出演者がいつ見ても同じ顔ぶれなのも、一発当てた芸人が起用されまくった挙句半年も経たずに消えていく現象も、
— seaweedchan (@hiyocombuu) March 2, 2016
あるいは、新しい四つ打ちバンドが現れてはあっという間に似たようなバンドに取って代わられていくロックシーンでも、
根っこは同じ匂いがするんです
という話をします。
twitterで、はしょってつぶやいてみたんですが、ちゃんと書き直そうかと。
■矢継ぎ早に移り変わる「スピード四つ打ち」バンドの「旬」
冒頭でもふれたように、似たようなバンドが現れてはあっという間に新しいバンドに取って代わられていく。
そのサイクルはどんどん早くなっていて、まさにそうしたバンドの大量生産、大量消費時代という様相を呈しています。
代表的なのは、散々言われ尽してきたように、「四つ打ちで速いタテノリのバンド」ではあるかと。
というのも、四つ打ちでノリが良い場合、比較的容易に盛り上がるので、一定程度の人気=結果はすぐに出やすい、ということがあると思います。
CDを売ることより、ライブやライブグッズで収益を上げなくてはならない今の音楽業界的には、
「スピード四つ打ち」は言ってみればライブ中心で稼いでいくための「勝ちパターン」のフォーマットになっているといっていいでしょう。
つまり、売上としての合格点は最低でも取れる、確実に失敗はしないフォーマットなのだと思われます。
しかも、ある程度の結果が現れるまでが比較的早い、というのもポイントです。
もちろん、「売れるかどうか安心できないので、無難に売れそうなフォーマットを取る」
というのはこれまでも定石かとは思いますが、これがどうも過剰になってきている感じがします。
だってこのフォーマットは「ロキノン系」「フェス系のアーティスト」というようにカテゴリ化されてきているくらい多いんですからね。
■「スピード四つ打ち」量産の背景?
そもそもこの流れの背景にはネット時代の趣味の多様化というご時世も大きく絡んでいます。
メディアやデバイスの種類が少なかった時代に比べ、みんなが一様に同じものに接するより、
今はもっぱら、個々人が自分の見たいものを見たいときに自分だけのデバイスで見るのが当たり前になっていますね。
特に若い世代には顕著で、TVをそもそも持っていないというほど。
たとえばこんなインタビュー。(これはTVについて絞ったものですが)
(下記、発言抜粋)
自分にとっての当たりの情報だけが欲しい
好きな時間に、自分の好きな番組を、観れるようにしてほしい
自分が興味のあるコンテンツだけを、自分の好きなタイミングで享受したい、というニーズが高まっているわけです。
スマホなど、パーソナルなデバイスでコンテンツに触れることが当たり前になっているからです。
そうなるといろいろな価値観や嗜好に人々が散らばってきます。
もちろん全員が全員バラバラというわけではないですが、、たとえるなら、人々は大都市に集中して住んでいるのではなく、部落が点々と存在しているようなかたちでしょうか。
―攻めたものに刺さる人は必ずいます。
ただ、果たして、どれくらいいるのか?どこにいるのか?が、そうした理由からとても予測しづらくなっているのです。
当たるか当たらないか、やってみないことにはますますわからない時代なのに、そんなものに投資できる勇気もない。
それはエンタメ業界の体力がないということの裏返しでもあるのです。ハズレが許されないほど余裕がないということ・・・
しかもじっくり腰を据えて育てる時間すらかけられないから、早く結果が出るモノのほうがなお良いとされているように見えます。
もちろん、その分早く「消費」されつくしてしまう=飽きられてしまう、ので、新しいバンドへの乗り換えがますます助長される ・・・
といった循環につながっているようにも思えますが。
それが「四つ打ちで速いタテノリのバンド」がもてはやされ、次々に投入されていっている背景のように思えてなりません。
■余裕のなさが生む、エンタメ業界の「モダンタイムス化」
とりあえず合格点の数字を追求するために冒険はせず、それなりに支持層の見込めるモノに飛びつきがちというこの傾向は、
いわゆるバンドミュージックだけでなく、ほかのエンタメ分野にも見受けられそうです。
歌番組の出演者がいつ見ても同じ顔ぶれなのも、一発当てた芸人や俳優、タレントが起用されまくった挙句すぐに消えていく現象も、あるいは、同じようなテレビ番組が多いのも、
根っこは同じと言えるでしょう。
「国民的」と冠をつけられがちな、AKBやジャニーズやEXILE TRIBEのみなさんだって、国民全員が好きなわけではもちろんありません。
というか結構な割合の人が実はそんなに興味はないと思います。
が、とはいえ他に比べれば好きな人がそれなりに多いのもまた事実。
ファンのみなさんの分だけ視聴率が取れれば、このご時世としては、まあ及第点の数字は取れそうな気がします。
よって、とりあえずAKBやジャニーズやEXILE TRIBEのみなさんを出しておけば、数字上は大コケすることはなさそうです。安心です。
「最近の歌番組は、いつも同じ人ばかり出ていて、興味がわかない、つまらない」
という声の背景には、そんな思惑が想像できます。
ある程度売れると分かりきっている金太郎飴のようなものを矢継ぎ早にとっかえひっかえ大量生産することで生き延びているのが今のエンタメ業界だとすれば、近い将来、歪みが出てしまうのでしょうか。
それはまるでチャップリンのモダンタイムスのようにも見えてきてなんだか複雑な気持ちになっている、今日この頃です。
サムネイル引用元:
Amazon.co.jp | モダン・タイムス [DVD] DVD・ブルーレイ - チャールズ・チャップリン, ポーレット・ゴダード, チェスター・コンクリン
音楽の魔法の“かけられ方”に口を出したくなるリスナー事情 ≪雑記≫
・・・さすがにこうも放置するのはどうかと思ったので、つなぎですけど、とりとめもないことを書こうかと思います。オチは無いです。
私はGalileo Galileiは全然聴いてこなかったんですけど、今度のアルバムは、仕事をしながらふと耳にして(ラストアルバムですが)とってもハッとしました。
Sea and The Darkness(初回生産限定盤)(DVD付)
- アーティスト: Galileo Galilei
- 出版社/メーカー: SME
- 発売日: 2016/01/27
- メディア: CD
- この商品を含むブログを見る
これは私的な反省ですけどGalileo Galileiについては、北海道のガレージで兄弟のやってる青いバンド的なレッテルは貼ってしまってましたよね…(私が)
— seaweedchan (@hiyocombuu) February 6, 2016
作品そのものの感想は別の機会に(あるのか?)、、として、
当ブログとして気になったのはこっち。。
これは余談
— Yuuki Ozaki (@yuuki_ozaki) January 28, 2016
ここ数年ずっと腹たってたから書く
プロデューサー、A&Rの目線で音楽語る奴多すぎない?
近年急激に増えてるように感じる。
僕はミュージシャンを生業にしているから好きな作品嫌いな作品を解析したり、売り方を研究することはあるけど
普段はそんな音楽の楽しみ方しないよ
姿を明かさず 業界人、知識人ごっこを垂れ流す
— Yuuki Ozaki (@yuuki_ozaki) January 28, 2016
そんな誰とも分からない卑怯者の言うことを真に受けないでほしい
まじで
まあここで私がこのように意見を述べていることすらすでにアレなのですが、
「近年」というところがちょっと気になりまして。
「以前との違い」の匂いがするもの、いちいち気になるんですよ、ハイ。。
さて、ここ数年一般人によるそういった言説が増えてきたことには大きく3つ、時代の流れとしての要因があると思うのですね。
1.UGCの普遍化
一般個人が、つぶやき・数秒動画投稿などもすべて含め、ネット上でコンテンツを発信するということが当たり前になったと同時に、何かに対し意見、評価するということもまた普遍化したのが、ここ数年であると思うのですね。
もちろん、だいぶ前から起こっていることではあるのですけど、レイトマジョリティにとってもSNSがインフラ化したのはやっぱり特にここ数年なのだと。
twitterに代表されるSNSがそうしたレイトマジョリティにも本格的に一般化したのは3.11がきっかけだったとも言われていますし、実感としても2010年くらいはまだ早耳な人たちがぼちぼち使い始めたくらいだったなあと思い出しています。
これは、そもそも一個人の意見が単純にオープンになって目立つようになった(アーティスト個人にとっても簡単に目に付くようになった)ということとも言えます。
2.個人での音楽制作環境の容易化
これは前の項目を音楽に絞ったような内容ではありますが、個人での音楽制作環境はここ数年で劇的に進み、またその発信の場や方法も多様になってきたので、いち個人が楽曲制作者となる事のハードルが、以前よりも下がってきました。
とは言え、みんながみんな楽曲を作るわけではないのは確か。
けれども一つ言えるのは、誰でもその気になれば「そうなりえる、チャンスは開かれている」という環境は整えられたということ。
実際宅録でプロ並みの音源を作ってしまう人も最近は多いですよね。ハイクオリティな楽曲制作ノウハウは、もはやプロミュージシャンの特権ではなくなりつつあると言える時代にあるのかも。
少なくとも、プロとアマチュアの境界は以前に比べれば、曖昧でぼやけたものになっています。
こうした「プロ」の位置づけの相対的な変化は、たとえ実際自分で楽曲を作らない人にとっても自身もまたプロと同じか近い地平に立つことができるという錯覚を無意識のうちに与えているのかもしれませんね。言い換えると、「プロ」の神格化のベールが剥がれつつある、ということ。
それゆえに、プロの作った楽曲に意見したくなる、「なんちゃってA&Rマン」に陥っていく人は多いのかも。
まあ実際に、「やる」と、「やろうと思えばやれる環境ではある」ことの違いはもちろん大きいと思いますが。
3.音楽市場の縮小の顕在化
正直言うと実はこれが一番大きい要因ではないかと思ってます。
昨今、音楽市場の縮小についての話題は耳タコというくらいにあふれかえっては一般の人にも認識されるところとなっているかと思いますが、
以前は音楽業界といえば、きらびやかでスターダムなイメージが強かったと思います。
もちろん今もそうしたイメージはあるかもしれませんが、
やっぱり「音楽業界って今キビしいんだってね」「CD売れないんだってね」「アーティストも昔みたいに食っていけなくて大変ね」という悲しいうわさのもと、“エンターテイメント産業”としてのシビアでビジネス的な側面の存在自体が見え隠れするようになってきたのがここ数年ですね。
音楽業界という謎のエリアは、未知のベールに包まれているからこそ、ある意味特別な憧れの存在だった。
それが音楽エンタメはいまや食っていけないと、暴かれ始めているわけです。
たとえるなら、ディズニーランドの裏側で、ミッキーの中からヘトヘトになって出てきたおっさんを見ちゃったような感じでしょうか?(あまり上手い例ではなかった・・・)
夢のベールが剥がれて現実が浮き彫りになった。「音楽業界は腐ってる」なんて言われれば言われるほど
「だったら、もっとこうしたほうがいいんじゃないの?!」
・・・と、つい聴き手も口を挟みたくなっちゃっている、ということ。
良い音楽を作れば勝手に売れる時代は終わった、と聴き手もすでにわかっている。
聴き手も、ただアーティストの魔法にかけられて夢を見せてもらうのではなく、
“魔法のかけられ方”に意識が向くようになっているのでしょう。
さて。
私個人の意見としては、こうした時代の流れもありますし(特に1.2.は純粋な、時代にしたがった環境の変化なので)
一般人がA&R気取りで意見することそれ自体については、別段目くじらを立てることでもないと思っています。
(まあ私もそんなカンチガイ野郎の一人なわけですし。笑)
なので尾崎君のは過剰反応のようにも感じてしまいますが(というかたぶんそういう性格なんでしょうけど)、きっと誰ともわからない人が無責任で辛辣なことを彼に浴びせたりしてたんでしょうね。。。
でも、3.で書いたように、
音楽(で生きていくにあたって)は「夢」の部分だけを見せられなくなってきているということに興味関心を抱くリスナーがいるとともに、最近では、そのことを自分たちでも考え、向き合うアーティストも現れてきていますが、
一方で、現実なんて見たくなくて音楽の魔法に盲目でありたいリスナー、そしてそうであることをリスナーに求めるアーティストも現状たくさんいる気がします。
どちらが良いのかはわかりませんが、でもきっと、音楽の「夢」だけではない現実は、これからもさらにオープンになっていくでしょう。
CDを売るということだけに依存するところからどう変わっていけるかに、音楽(業界)の未来はかかっていると思いますが、でも現状、そのやり方はまだ試行錯誤の渦中なんですよねえ。
そのひとつとして、「夢」だけでない部分をあえて提示しながら、リスナーやファンとの新しい関係性を結んでいくアーティストも、どんどん出てくるのかもしれません。
(抽象的な結論になってしまった・・・汗)
アナログレコード人気再興の再考
前回はサブスクについて書きましたが、今回は対極になるアナログレコード人気の「なぜ?」を深掘りしてみました。(サブスクとアナログは対極でありつつ双方を補完するコインの裏表だとは思うのですが、それは今回はさておき。)
■アナログレコードとCDの価値のシーソーゲーム
いきなり結論から入るならば、アナログ人気は要はスノビズムのひとつの形だ、と言ってしまえば簡単でしょうし、実際そうなのでしょう。けれどそれでは、、、あまり本質的ではないですよね。
こういった意見もありました。
これもこれでひとつの切り口としてよいと思うのですが、ではなぜ今「カジュアルリッチ」が求められているのか、がイマイチ不明瞭です。
「なぜ “今”なのか?」
まずレコードとCDの興亡を紐解いてみます。
レコードの生産数は1980年前後をピークに減少、1982年にCDが初めて発売されて以降若干のタイムラグはあれどそこから右肩下がりです。一方のCDはというと、80年代後半から90年代にかけて生産数が飛躍的に伸びて、1998年にピークを迎える形になるわけです。(以降は、右肩下がりが止まりません。。。)
【参考】日本レコード協会 「日本のレコード産業」2000年版
http://www.riaj.or.jp/f/pdf/issue/industry/Ryb00j01.pdf www.riaj.or.jp
この間をよく見てみると、実は一時期だけ、アナログレコードの生産数が伸びている時期があります。95年から99年にかけてですね。これはDJブームの時期と言ってよいでしょう。私は当時の若者ではないので肌感覚ではわかりませんが、「バンドブームが終わって楽器を持て余した若者たちがそれらを売っぱらってこぞってDJセットを買った」という逸話を聞いたことがあります・・・。
では、今のアナログ人気と、90年代半ば~後半にかけてのアナログブーム(本ブログでは便宜的に第1次アナログブームと呼ぶことにします)はどこが同じで、どこが違うのでしょうか?
共通しているのは、CDの価値とのシーソーゲームによって価値が付加されたという点ですね。
第1次アナログブームの際には、CDが爆発的に生産されるようになったことでCDがごく当たり前のものになった。つまり需要と供給が増えたことによる、それ以前と比べた時の相対的な価値の低下、普遍化が起こったと言えるでしょう。
現在はというと、CDの生産数はガタ落ちなわけですが、それは純粋に、需要の縮小という名の価値の低下です。
このように、CDというものの価値と意味が見直されるタイミングで、アナログが注目されるわけですね。CDとの二項対立の相手として、たびたび引っ張り出されてしまうのがアナログの宿命なのかもしれません・・・
さて、しかし、第1次アナログブームと現在のアナログブームは、やはり本質的には違うものです。
第1次アナログブームはDJブームと関連のある動きなのでアナログレコードは実際に使用されます。使用価値があるのです。
対して、現在のアナログ人気では、もちろん実際に皆さんレコードをかけて音の豊かさを楽しみつつ、同時に「飾っておきたいから」という欲求も満たしているという話は一般によく聞きますよね。
ツイッターでは、アナログレコードを支持する声が書き込まれていた。「再生音域の豊かさに脱帽」「最近アナログレコードばかり聴いている。たまにCDを聴くと音がまとまり過ぎていて物足りない」のほか、「アナログレコード聴いたら曲順通り覚える」といったつぶやきもあった。
(上記記事より抜粋)
アナログを聴く若者の意見を見て気づかされるのが、現代においてそうしたレコードを聴くという行為が、そのように昨今アナログに手を伸ばすようになった人々にとって、ある意味、音楽を聴く行為における「正統なあり方」と位置付けられているのではないかということです。
同記事の中の下記ような、レコードを聴くことに実用性ではなく儀式性を見出す意見にもそうした視点が見受けられそうです。
大妻女子大の小泉恭子教授(音楽社会学)は「音楽の起源は宗教的儀式にある。ネットで簡単に聴ける時代だからこそ、ひと手間かけるレコードの儀式性が重視される」と話す。
(上記記事より抜粋)
つまり、アナログレコードを所有し聴くという行為そのものに記号的な価値があるということです。
■アナログレコードに付加された現代のオーセンティシティ
まわりくどい言い方をしました。
はい、要は、音楽好きを自認する(特に)若者が今日びアナログに何を求めてるんだという話です。若者たちはHMV record shopに通い、レコードストアデイに並び、人気のアーティストのアナログを買っているわけですが、それはなぜか。
「音楽好き」というところがポイントです。音楽が好きだからレコードで聴こうと思うわけですから、レコードで聴くことにある種の音楽としてのオーセンティシティ(正統性)―音楽の聴取方法としてあるべき姿―を見ているということが推測されます。そうした価値観は、前述のようにCDを引き合いにすることで新たにアナログレコードに付与された「意味」です。
「聴くのに手間がかかることが新鮮なんです」
「ぬくもりや手作り感が感じられる」
「アナログはCDとは音が違うんだよね、CDは味気ないよ」
こうした声、私もすごくわかります。でも、よく考えてください、
―何枚も買っているうちに新鮮さは薄れていきませんか?
―カッティングは職人技かもしれませんが、生産は工場でするものですよ?
―丸みのある素敵な音ですけど、アナログをずっと聴いてきた人にとっては当時、CDの鮮明な音を歓迎したかもしれないですよ?
1980年よりも前はアナログが普通だったのです。
当時は、アナログは希少なものではなく、むしろ大量生産のための手段で、庶民が音楽を聴くための当たり前の媒体でした。
そう、つまり人々の間で、こうした「古めかしさ」が、文化としての「正しさ」や「高尚さ」にすり替えられているということなのです。
こうしたかつて大衆的なものだったものの、古さの高尚さへのすり替えというのは、よくある現象でもあります。音楽で言うなら、ジャズはその代表ですね。また、着物や歌舞伎(歌舞伎の高尚化には政治的な意図があったそうなので自然な現象ではないですが)などもそうかもしれません。
庶民のものだったものが、伝統や形式という装飾が強調され高尚なものとして社会的な意味が変容したのです。
今やアナログレコードは希少というイメージが強く、本来の大量生産・大量頒布の媒体という役割は担っていないため、現在新たに発売されるアナログは、乱暴に言えば、それが当たり前だった時代の、それらの「レプリカ」にすぎないとも言えます。
けれども、現代新たに製造されるアナログレコードは、そうした当時の本来のあり方にはなかった意味、すなわち、音楽としてより「本物」らしいというイメージが、人々によって新たに付与されている、という倒錯した関係が展開されているのは、とても興味深いです。
■ビジュアルイメージの時代とアナログレコード
ここで改めて最初の問いに戻りましょう― ではなぜ、“今”なのか?
「YouTubeなどを通じて音楽を所有することが少なくなったからこそ、モノとしての音楽が見直されている」という話や「CD音源との音質の違い」については、もちろんそれもあるだろう、とは思いつつ、それとは別の角度から考えてみます。
注目したいのは「アナログレコードを飾る」という行為の特殊性です。もう一度先ほどの記事を引用してみましょう。
「部屋に飾るの今から楽しみ」「ジャケだけで買っちゃいそうになるのもある」とレコードジャケットの魅力を指摘する声もあった。
(上記記事より抜粋)
これは第1次アナログブームにはあまり際立ってはいないはずです。(もちろんあるにはあったと思いますが)
気に入ったものを目に見える状態にするということ、これって実はここ数年、より強い傾向があるように感じています。
たとえば「フォトジェニック」という言葉があります。意味は「写真映えがする」ということ。前からあった言葉ですが、最近は、以前より注目されています。
スマホの普及、スマホのカメラの性能の飛躍的な向上は、美しい写真を撮ることを本当に簡単にしました。
綺麗な夕焼けを見れば、素敵なカフェに行けば、珍しい料理が出てくれば、すかさずスマホで写真を撮る。そして人はその素敵に撮れた写真を、時にはSNSに投稿するでしょう。
インターネットが普及するようになって、人は視覚から得る情報がそれまで以上に圧倒的に増えたそうです。15年前と5年前を比べると人が視覚から得る情報は15倍になったらしいと聞きました。このブログを読むことだってそう、文字であれなんであれ、インターネットで得る情報の多くは、視覚情報なのです。
だから、ネット上かリアルかにかかわらず、視覚から得られる情報は現代ではますます重要視されるようになっていると言えるでしょう。
Instagramが流行っているのもそうした背景があるように思われます。よりわかりやすく視覚に特化し訴えるようなメディアが支持される時代なのでしょう。
(Instagram映えすることを「フォトジェニック」を文字って「インスタジェニック」と言うくらいです。)
撮れた写真を、人に見せるか、SNSに投稿するか、自分のスマホに保存しておくだけにするかは、人それぞれ、場合によりけり、だけれども、
いずれにせよ写真というビジュアルイメージを、スマホに詰め込んで肌身離さず持ち歩く、という行為に人は少なからず満足感を得る時代なのです。
さらに言えば、写真に撮らなくても、素敵なビジュアルイメージを自分の目がとらえる、というごく単純な行為の価値すら、昨今は上がっているとも言えるかもしれません。「ワタシ」という存在がフィルターそのものになっている。
だから、大きくて見映えのするレコードのジャケットというのは、今こそ、飾り甲斐がある。飾るだけでも満足だけれど、人によっては写真に撮ってSNSに投稿するし、その価値も大いにある。
単純にモノとしての「デカさ」が強調され、精緻に表現されたデザインでも視覚的にわかりやすいアナログレコードは、音楽好きの現代の若者にとってみれば、まさにうってつけのアイテムなのかもしれません。
とかなんとか、シニカルに書きましたけど、私もそんな若者たちの一人なのでした。ちゃんちゃん。。
ロットバルトバロンの氷河期のLPを買ってみたわけですが、ジャケもさることながら、レコードの盤面が…薄氷のような透明!とっても綺麗
ジャケットを飾りたいのだけど、そうすると綺麗な盤面が見えないジレンマ pic.twitter.com/4scs2L4woL
— seaweedchan (@hiyocombuu) August 10, 2015
ジャケットじゃないですけど。笑
ROTH BART BARONとっても素敵ですよね。新譜はCDで買ってしまいましたが・・・。
■補足:カジュアルリッチもまた現代病
※ここから抽象的な話を始めちゃうので、余力のある方はよろしければ・・・。
そういえば触れていなかったので。冒頭のブログについて。揚げ足取りではないんですが一応・・・
アナログレコード人気も若者のカジュアルリッチ指向の一種と見るのはもちろん賛成です。その通りだと思います。
けれど、そんな「大量生産品ではない、手間のかかったモノを持ちたい、人とは違う経験をしたい」というカジュアルリッチな考え方が人々の間に表れるのもまた、大量消費社会の一側面なんじゃないでしょうか。
私が大学時代にかじって影響を受けた社会学者ボードリヤールの主張を非常に大雑把に端折って拝借すると、
現代の消費社会の中では、自分のアイデンティティは「他人がどう思うか」によって形作られるので、どんなモノを自分が消費するかによって確定させる必要があるとされます。その際、広告やマスメディアが提供するモノやコトのイメージが、ひとつの価値基準として機能するともされます。
さて、現在ではマスメディアの力が減退し、インターネットやソーシャルメディアの力がより増していますね。つまり、マスメディアが提供するような画一的な価値観の相対化が進んでいるように私には思われます。
自分も含めて、相対的な個がバラバラに存在するとなると、自分自身による自己の定義はより強く求められるようになるでしょう。
そんな中、自己の再定義に効果的なのは、大量に生産されマスメディアによって媒介されるようなモノゴトではなく、自分しか持っていないモノや、あるいは特別な体験(コト)。
それらで身を固めることが求められるのは、一歩進んだ現在のような消費社会においては、必然なのではないでしょうか。
ハンドメイド、手間暇かかったもの、希少なもの、一度きりの体験、それら大量生産物を拒否するためのカジュアルリッチなモノゴトは、とはいえ実はそれこそが、ハイパー大量消費社会の産み落とした産物なのかもしれません。
有料音楽配信と、ITの進化に興味のない"デジタルネイティブ"
前のエントリーから2か月も空いてしまいました!立て込むとなかなか続かないですね。。2週間に1回ぐらいにしたいものです。
今回は前回までと打って変わって、特定のアーティストのことではなく、
昨今話題の「サブスクリプション型定額音楽配信サービス」を中心に若者と有料音楽配信の関係について考えてみました。
普段実際にいろいろ見聞きする中で(若者からもそうでない人からもです)「"デジタルネイティブ"な若者って、実はデジタルサービスのこと、全然よくわかってないんじゃないだろうか?」という話が出てきて、それがとても腑に落ちたこともあり、
そんな趣旨をベースに、「何故有料音楽配信は(ダウンロード購入も、サブスクリプション型も)さほど普及しないのか」いろいろ語ってみました。
※記事のアイキャッチは下記から設定させていただきましたがなんの関係もございません。悪しからず。
スマホで音楽を聴く人が急増中!!ソニー ワイヤレスヘッドホンムービー「ダンスリレー」篇 3月15日(金)より公開|ソニーマーケティング株式会社のプレスリリース
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■オンデマンド型サブスク音楽配信の苦戦模様
音楽好きの間ではローンチ当初盛り上がりを見せたサブスクリプション型の定額音楽配信サービス。今年ローンチした主要3サービスはその中でも特に「オンデマンド型」と呼ばれる、ユーザーが好きに聴きたい曲を選べるタイプのサービスですが*1、その無料期間が終了しつつある中その「結果」が表れつつあります。
「定額制音楽配信に関する調査」1年以内のサービス利用者は8%、「Apple Music」が最多。今後の利用意向者は9% http://t.co/QqYKdO4Dtc
— ミュージックマンネット (@musicman_net) September 30, 2015
ざっと見て、サービス利用者が全体の1割、そしてさらに今後の有料課金見込みユーザーは1割。あれほど「音楽好き」に騒がれていたにしては思ったより少ないという印象ですね。
個人的な見立てなのですが、こうしたサービスは実はあまり若者に浸透していないのではないように感じています。
アプリ内にYouTubeなどから音源がひっぱってきてあり、それらを聴くことのできる無料アプリというものがあります。MusicBoxや、MusicTubeeなど。当然、これらは法的にはかなりグレーゾーンなアプリです。
ですが、こうしたアプリで音楽を聴いている人が、特に若者には多いのです。
そしてそうした人々は基本的には熱心な「音楽好き」ではないですね。無いなら無いで他の娯楽で代替できるような、ごく普通の、ライトな関わり方をしている人々。
そういう人にとっては、無料でほとんどの楽曲が聴けてしまう以上、あえて課金して新サービスを使おうというのは、まああり得ない話ですね。
■巷に巣食う、「ITサービスはなんだかよくわからないから」
とはいえ、サブスクサービスにはこうした無料アプリにはない付加価値があるのも事実です。レコメンドエンジンやアーティストや友人とのコミュニケーション機能など・・・
ですがそこに魅力を感じている人が想像以上に少ない。魅力に気づいている人も少ないのではないでしょうか?
そしてそれ以上に、どうやら思っているほど世間の人はこうしたITサービスの進化についていけていないのではないか、とも思われます。
興味のある人は自分で調べてキャッチアップしていくでしょう。周りに詳しい人や興味を持っている人がいる場合も比較的使いこなせるようになっていきます。
が、聞いたところによると、若いから、といっても各種アプリやサービス、またiPhoneユーザーならApple IDによる端末間の連携他、「イマイチなんだかよくわからない」という人も多いようなのです。
この「なんだかよくわからないから」という理由こそが、サブスクリプション配信サービスも含め、音楽にかかわるデジタルコンテンツ全般の不振の1つのボトルネックなのではないかと感じ始めています。
実を申しますと、私、こんな記事を書きながらも、AWA・LINE MUSIC・Apple Musicについてはローンチしてすぐにユーザー登録したわけではなかったりします・・・(もちろんその後一通りは触りましたが。)これは、なんとも形容しがたいのですが・・・確かに私も感じていました、この「なんだかよくわからないからとりあえず手を出さないでおこう」という感情・・・
■着うたは本当に若者の「コミュニケーションツール」だったのか?
さて、いったん話を別の話題に振りましょう。
「着うた」というものがありましたね。着うたの最盛期は、2008~2009年ごろと考えてよいでしょう。 *2※
※日本レコード協会の統計にはグラフ化したものはありませんでしたので、下記参考までに。
※※参考までに、古いデータですが。
よって、現在のデジタル音源のダウンロード配信販売が伸び悩んでいることの原因としては、ガラケーからスマホへのデバイスの変化が指摘されることが多いです。
着うたについての考察としては、面白い記事がありました。
着うたはコミュニケーションツールだった、ジュークボックスの役目を果たしたのだというのです。
氏によれば、
「着うた」という文化がまるごとなくなったのは何故か。その理由は、そもそも着うたが「音楽そのもの」(=コンテンツ)ではなく「会話のきっかけ」(=コミュニケーションツール)を販売するサービスだったから。僕はそう考えています。
「LINE Music」はスマホの普及で壊滅した「着うた」文化を蘇らせる - 日々の音色とことば
「ねえ? これ知ってる?」という会話のきっかけになるものに、人はお金を払うわけです。
「LINE Music」はスマホの普及で壊滅した「着うた」文化を蘇らせる - 日々の音色とことば
ということだそうです。
私、この記事を読んだ当初、ははあととても納得したことを覚えています。だから私も当初は、「サブスクサービスが今後はそこに取って代わるに違いない!」とサブスクサービスに非常に期待感を抱いたりしてました。
ただ、今、よく思い出してみたのです。私、何を隠そう、着うた全盛期世代に青春を過ごした人間でした。着うたで友人とコミュニケーションをとったことがあったかな・・・と、、、
う~ん、私自身の中には、思い当たりません。。
本当にジュークボックス的な存在だったのでしょうか?
ただ1つ、言えることがあります。楽曲そのものについて語った記憶はありませんが
着うたとやらをどこでどう手に入れるか、ということについては、初めは友人づたいに、だったと思うのです。
――つまりこういこうとではないでしょうか。着うたは確かに、友人同士のコミュニケーションツールだったかもしれません、ですがそれは着うたという「ツール」の存在とその使い方について、語られたにすぎないということ――
■"デジタルネイティブ"とは「デジタルツールに詳しい」という意味ではない
話を元に戻しましょう。
前述のMusicBox等、無料の違法音楽アプリですが、App storeやGoogle Playのランキングでは常に上位にランクインしています。グレーゾーンなアプリにもかかわらず、です。ランキング上位なので、人気で、安全で、信頼のおけるアプリであると、思ってしまうことは無理もないことです。
また、こうしたアプリは友人のススメや口コミで使い始める人も多いみたいです。
まさに、ガラケー時代の着うたに取って代わったのは、これらのアプリと言っていいと思います。
日本は他の国に比べて、PCやタブレットよりモバイル端末(ケータイ)文化が根強く、音楽以外も含め、通勤通学・移動中等にケータイで何かができる、ということに非常に需要があると言われています。着うたも日本独特の文化です。
よって、本来ならば、スマホ移行後は、レコチョクやmoraといった楽曲のダウンロード販売のチャネルからの楽曲購入へお客さんも移行するのが自然な流れと見えますが、そうはならなかった。
お分かりかと思いますが、そうしたチャネルから楽曲をダウンロードし、再生するには、さらにそれ専用のアプリ(プレイヤー)をそれぞれダウンロードする必要があり、正直、かなり面倒です。違うチャネルで買ったものを別のプレイヤーで聴くことはできない。
・・・これ、自分で書いていても思うのですが、さほど難しくはないにせよこの仕組みを友人同士の世間話程度に口頭でサクッと説明するのってちょっと厄介な気がします。少なくとも直感的ではない。ダウンロードしたはいいものの、どうやって聴けばいいの?という部分が若干わかりにくい。
一方、ガラケーの時には、iモードなりなんなりを開いて、レコチョクでもどこでも、ダウンロードしてしまえば端末のメモリーに入り、すぐさま聴くことができました。
ちょっとの差ではありますが、最初にも書いた通り、実は世間一般の若者ってさほどデジタルサービスに詳しいわけでも、興味があるわけでもないんですよね。ただ、物心ついたころから「そこにあった」だけで、知ろうと思って知識を得たわけではないのです。
だからこそ、友人からの口コミで知る程度ですぐに理解できるような、単純で分かりやすいモノ以外は、「なんだかよくわからないモノ」となってしまう。
ちなみに、サブスクサービスは、いちいち楽曲をダウンロードして、専用のアプリもインストールして・・・という手間がない点では、実際のところ比較的単純な仕組みだといえますが、1回利用し始めた後やめてしまうと、せっかく自分好みにプレイリストなど、カスタマイズしたところで聴けなくなってしまうため、なかなかやめづらくなる、というリスクがある点はユーザーを漠然と不安にさせる要素の一つかもしれません。個人的には料金プランが複数あることも、「なんだかよくわからない」感をあおる一因にも思えていますが・・・
また、蛇足かも知れませんが、今の若者(「今の若者は・・・」なんてつまらない議論ですが)は、無駄を好まないと言います。リスクを取りたがらないというのもあります。
試しにアプリを入れてみるということに対して慎重、日常的に使わないツールはすぐに削除。
彼らのスマホは、友人のオススメやアプリランキング上位のものが最低限並んでいるだけの、思ったよりもシンプルな画面だったりします。
意外と、新しいサービスやアプリ、IT技術に色めき立ってすぐに使いたがるのは若者ではなく、「オジサン」たちなのかもしれませんね。
■ツールは課金するものではないと思っている人々
繰り返しになりますが、やはり日本の若者はモバイルファースト。デジタルネイティブは、自分で調べて知識を得た上でデジタルサービスを利用しているのではありませんから、無駄な手間やものが増えずに、友達に聞いた程度で扱えることがとても大事です。
加えて、楽曲のサブスクリプション配信サービスについては、1曲1曲を購入して聴くよりも「ツール」という捉えられ方をされやすいとは思います。本当はコンテンツの集合体なのですが、楽曲を聴くためのただの「ツール」「道具」として捉えるならば、たしかにそれに課金するという発想は生まれにくいかもしれませんね。YouTubeという「ツール」に慣れ親しんでいるからこそです。
純粋に比較すれば、iTunesやレコチョクなどで1曲ごとに購入すること、もっと言えばTSUTAYAで5枚1000円でCDをレンタルすることと、月額1000円程度で無数の楽曲が聴けることは、後者のほうが当然圧倒的に割安ですが、「サブスクを使うくらいならレンタルで済ます」という若者も非常に多いようなのです。
これは一見かなり奇妙に映る行動ではありますが、彼らはそもそも、前者は「コンテンツ」として、後者は「ツール」として認識しているのではないでしょうか。つまり、前者と後者は、比較対象としてのレイヤーがそもそも異なっている。そのためか、ダウンロード販売やレンタルに対するサブスクの価格の割安感を訴求したところでどうもピンとこないようなのです。
彼らがサブスクサービスと比較対象とするのはあくまでYouTubeやMusicBoxというツールであり、それゆえ「単なるツールがお金をとるなんてバカげている」という感情につながっている。
そうした認識が生まれるのも、若いからといって、「デジタル時代の最新ツール」にお金を払うほど興味を持っていないからなのかもしれません。
下の記事の中に出てくるユーザーの声なんて、まさにそんな感情がにじみ出ているように見えます。
(「30秒しか聴けないなんて何様だよ」なんてまさに、「ツールごときが金をとるなんて!」という感じが伝わってきますね!)
※下記は、上の記事から引用したユーザーの声
「ずっと無料にしてほしい。 無料期間終わったら30秒しか聴けないとか、何様だよ」
「学割とか何よ。無料で聴かせてよ」
「無料期間にダウンロードした曲も買い直さなきゃならないのか」
「無料じゃなくなったLINE MUSICはアンインストールするしかない」
「今度はAWAの無料お試しに移行する」
「LINE MUSICよりMusicBoxがいい」
では曲ごとにダウンロード購入するかというとそうではない。
前述のとおり、やはりこれはガラケーからスマホ移行時期に、ガラケー時代と同程度の分かりやすさを持ったサービスやプラットフォームを生み出せなかったというのは一つ大きい部分かなと感じます。(当然他にも理由はあるでしょうが今回のテーマから逸れそうなので割愛)よって、スマホ移行後こちらのスタイルも上手く根付かなかったと言えます。
サブスクに魅力を感じないし、そもそも、なんだか使い方がよくわからない。
ダウンロード販売は、スマホで聴くにはなんだか面倒くさそうだし、どうやったらいいかわからない。
――そんな一般的な"デジタルネイティブ"な若者は、結局、グレーな無料アプリやCDレンタルという方法で、満足し切ってしまっていて、あえて新しいものに手を出そうとは思えていない、というのが現状でしょう。
ただし、音楽が日常に欠かせない「音楽オタク」的なタイプの人々にとっては、サブスクに関しては重宝されていきそうですね。だからこそ、ローンチ直後に音楽ライター的な人々には騒がれたわけですね。
そうした人々にとっては「インフラ」として機能していくサービスだとは思いますが、やはりそうでない音楽は暇つぶしでしかない人々にとってしてみれば、それに月々支払う必要性は、今のところ感じられないのだと思われます。
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ということで、今回は、若者にフォーカスを当てて、課金型のデジタル音楽配信サービスがなぜ彼らに受け入れられないのかを考察しました。
デジタルネイティブと言えど、いや、デジタルネイティブだからこそ、「なんだかよくわからないけど複雑そう、使いにくそう」なイメージを一度持たれると、彼ら若者はもう二度とそのサービスには戻ってはきてくれないのかもしれません・・・。
*1:そうではない、あらかじめ選曲がプログラムされたものを聴くタイプのものを「ラジオ型」と呼び、dヒッツなどが筆頭ですが、今回の記事ではサブスクリプションサービスについては主に「オンデマンド型」を指しています。
*2:日本レコード協会の統計(一般社団法人 日本レコード協会|各種統計)では、有料音楽配信売上データについては2005年以降(着うたの登場は2005年)のデータしかありませんが、こちらを元にすると、2008~2009年ごろの売上が最大(2009年:910億円程度)。うち、着うた比率までは出していません。スミマセン。。目安と思って下さい。
*3:ちなみにiPhone3Gが日本で発売されたのが2008年。以降2010年のiPhone4発売くらいまではスマホはさほど一般には普及していませんでした
cero/Obscure Rideを“シティ”と“ポップ”に分解する(2)“シティ”=わたし達の街の不確かさ、わたし達の見ている「今」
ありふれた日常と普遍の周りを回遊しながら、時折のぞかせる不穏さ。
それは、震災以降改めて気付かされた我々の街の不確かさ。
都市という存在そのもののフィクションや空虚、それゆえに内包する不気味さ、それを眺める自分がいま居るここが夢か現実か定かではない感覚(“My lost city”―M11「わたしのすがた」)。
前作“My lost city”のラストに登場するモチーフである「都市の虚構性」にフォーカスを当て、掘り下げた視点が今作“Obscure Ride”の通奏低音となっているようだ。そしてそれこそが彼らの見ている「都市」―“シティ“の今のすがたなのである。
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元祖シティ・ポップの「シティ」イメージ
いわゆる元祖シティ・ポップというものについては、「ミュージック・マガジン」2015年6月号において、((さらうんど))のCrystalが以下のように定義しているとし、彼のブログが引用されている。
「80年代のある種の日本のポップス。欧米のポップ・ミュージックを消化した洗練された音楽性を志向し、歌詞やビジュアルは、豊かな都市生活とそれを前提としたリゾートへの憧れをテーマとすることが多い」
(「ミュージック・マガジン」2015年6月号―p.36 )
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シティ・ポップの指す「シティ」。かつてのそれは、人々の憧れの対象としての、すなわち、一部虚構の空想をも伴った羨望の矛先としての、きらびやかなネオンの輝く「都市イメージ」ということになる。
“Obscure Ride”のもつ不穏さの正体
さて、今作“Obscure Ride”だが、よく歌詞を読み進めてみるとその中に紛れ込んでいる、一抹の不穏さや不気味さが我々の目を引く。
特に象徴的なのはM8“Roji”の歌詞構成だ。
特に“Roji”は高城が母と切り盛りしている店の名前であり、その意味で、ここで描かれるなんでもない風景は、彼自身の、自然体の日常を究極的に象徴し、切り取っていると言っていい。
だからこそ、最後のシーンに突如かかってくる不気味な電話によってその風景が冷たく一変する場面には、我々の日常がなんらかの非日常的なものに簡単にアクセスできてしまうような、ある種の不穏さを強烈に印象付ける。
それ以外にも本作に収録された楽曲の多くにはたびたび、一抹の不気味さを感じさせるモチーフが、なにげない日常を描く中に突如として登場してくる。
影のない人 (M3-Elephant Ghost, M6-ticktack, M11-Wayang Park Banquet)
幽霊・亡霊 (M3-Elephant Ghost, M10-夜去)
街を見下ろす誰か (M9-DRIFTIN')
誰かからの不気味な電話 (M8-Roji)
パラレルワールド (M7-Orphans, M8-Roji)
どこかへ行ってしまったみんな (M6-ticktack)
・・・
こうしたモチーフに漂うのは、言ってみれば――この世のものではないものの気配だ。
前作は「3.11と僕ら」という視点が色濃く投影された作品となっていたが、その日から4年経った今の我々のくらしを俯瞰する視点が時折現れるのが今作、という立ち位置だろう。この世のものではないものの存在感となって立ち現れているのはまさにそれである。つまり、その日常の“もろさ”を。
「不確かさ」こそが現在の「シティ」のすがた
彼らは前作リリース時のインタビューにおいて、自らが「シティ・ポップ」と語られることへの違和感を示しながらも、その自身による解釈として「シティ・ポップとは、パラレル・ワールドのことで、表裏一体である享楽と空虚の世界観を表現している」という旨の発言をしている。
高 享楽こそが都市っていうもののいちばんの根源というか。それこそ、シティ・ポップと言われてるものって享楽的な世界観だと思うんですよ。そして、自分の中で、"空虚"は、"享楽"と裏表で。(略)
荒 要するに、シティ・ポップってパラレル・ワールドっていうことですよね。そう考えると、ceroがシティ・ポップと言われるのも何となく分かる。
(中略)
高 結局、都市っていうのは残っていくものじゃなくて、最終的には負けるんですよね。一瞬、パッと華やかに存在して、消えていくものなんだと思う。だからこそ、享楽的になるし。何というか、そういう観点で"シティ・ポップ"をやれたら、自分たち特有の音楽になるんじゃないかなって。
※高=高城、荒=荒内
今作もまたこうした「シティ・ポップ」の解釈が踏襲されていると言ってよいだろう。
だが今作はどちらかと言えば、都市の享楽性よりも、我々が何気なく生活しているこの街・東京の、ふとした瞬間に垣間見えてしまう不確かさや虚構性をその作品の中に忍ばせることに軸足が置かれているようだ。
ブックレットのアートワークにも、都市の風景に影を落としたような写真が用いられていることからもその姿勢はうかがえる。
震災から4年経って、我々の街(東京)はまるで何事もなかったかのような日常をすっかり取り戻したようで、それは享楽と言っていいのかもしれないが、甘い蜜に浸かりながら生きている。そうした生活は、簡単に崩れ去りかねないのだ、ということを4年前に気付いたはずなのに、である。我々の日常はいつだって危うさや非日常と隣り合わせで、この享楽というすがたをしているのは虚構で、そして我々は空虚の中で息をしているのかもしれない――
それが彼らの描くパラレル・ワールドのシティ・ポップなのだ。
ブラックミュージックオリエンテッドなスムースな響きに耳を奪われがちな今作だが、歌詞を追っていくと、今自分の生きているこの街・この日常のほうが、本当は夢や虚構かもしれない、という感覚に襲われる。
それはまるで、こちらとあちらの境界、すなわち、平穏で平凡な甘い日常と緊張感と不穏さをはらんだ非日常の境界は、我々の思っているよりずっと曖昧な(=“Obscure")ものなのではないか、という投げかけのようでもある。
都市の享楽―都市に住む我々のごくありふれた日常―がわたし達を覆い以前となにも変わらないように生きていても、あの時気付いたはずであるその不確かさや虚構性であったり、危うい世界との境界は実に曖昧で簡単に乗り越えられてしまうことが、東京に住む彼らによって肌で感じながら描かれているという点において、この“Obscure Ride”はまさに現在に更新された究極にありのままの、「シティ」の音楽なのだ。
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今回の続き記事にした「cero/Obscure Rideを“シティ”と“ポップ”に分解する」の3回を通じて、ceroは「シティ・ポップ」と呼ばれるべきなのだ、ということをまとめとしておきたい。
もちろんそれは、80年代のシティ・ポップとは意味合いが異なる。
・「シティ」=現在の都市を生きる彼らが感じ取る、街の不確かさという意味での「虚構性」
・「ポップ」=メインストリーム化したロックとは違うものを志向するという意味での「対抗文化性」
こうした要素を同時に持ち合わせているからこそ、「新しい」という形容詞を冠するという前提において、cero/Obscure Rideは、まごうことなき「シティ・ポップ」なのだ。