週末ひとりけんきゅうしつ

つれづれなるままにひぐらし音楽と社会をながめる人のひとりごと。(もはや週末関係ない)

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My Best Album 30 in 2016、やってみました。

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個人的な今年1年を振り返りつつ、初めて今年は、あくまで主観ですが、年間ベストアルバムの選盤にチャレンジしてみようと思います。 

 

「ベスト決められるほど新譜を聴いてないよ・・・」 と、去年まではやりたくてもなかなかできなかった年間ベストですが、

今年は良い出会いもたくさんあり、自分にとって新しい音楽に触れようという意識を習慣づけることができて、個人ベストを選べる程度には、一応成長しました。。

フィジカルは少なくとも新譜・旧譜含め月2〜3枚程度は買っていたように思いますが(それでも少ない)やはりApple MusicやSpotifyを使いこなせるようになってきたのは大きくて、

その分結果的に洋楽の方をより多く聴くようになったのでした。

 

その中でも、これまで、ブラックミュージックはほとんど通ってこなかった私にすら、今年はその重要性というのは無視できるものではないことが十分伝わってきた年でした。

そういう意味でも個人的には、自然と聴く音楽の幅が広がっていったのがなによりも変化だったなと思います。

と言いつつ、カニエも、チャンス・ザ・ラッパーも…聴いてはいるのですが、、、

いかんせん私がヒップホップの背景について詳しくないので順位をつける上で評価が下せず、個人ベストという意味も強いので、あえて今回は外しました…。。。

 

客観的に選ぶと多くの公のメディアと結局一緒になってしまって面白くないし、個のリアリティがない。

かといって、完全に好みだけで選んでしまって読み手にとって意味をなさないだろうな、という懸念がある。

なので、ちゃんとその間をとったベストにすべく、ざっくりと線引きを設けてみました。

 

自分がしっかりと聴いたお気に入りの作品を前提として、「ジャンルや人種のクロスオーバー」が意識されているもの、または音楽的な挑戦が感じられた作品(前作や過去作に比べた変化も含む)

※例外もあり

 

「こいつは、こういう視点で聴いていた、こんなのが好きな奴なんだな」

というのを、わかっていただけたら最高です。

仮に番号を振っていますが、あまり厳密な順位付けではありません。

客観的な総評をベースに個人的な重要度に傾斜をかけた結果という感じです。

 

 

1.Bon Iver/22, a million

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これまでのソロ作品のフォーキーで壮大な美しさを残しながら、カニエとのコラボレーションなどを経て辿り着いた、デジタルクワイアーや大胆に歪ませた楽器、声のサンプリングふんだんに取り入れた、誰も聴いたこともない音像。彼ーージャスティン・ヴァーノンがそのように今作で表現するカオスと優しさは、まるで混迷を極める世界の中で、その世界と自分との折り合いをつけるかのような試みなのではないだろうか。曲名だけでなく、アートワークやブックレットに施された意味深な数字的な意匠、記号や象徴(アイコン)は、彼がそうやって世界を微分した先に見た真理なのかもしれない。

 

 2.Angel Olsen/My Woman

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シカゴのシンガーソングライター、エンジェル・オルセンの3作目。どうもハマりまくってしまい、今年1番聴いたかもしれません。

各メディアで軒並み高順位をかっさらっている彼女の評価されるところはその大胆なビブラートを生かした豊潤な歌声、というのがまず第一。と、言いつつ曲そのものはスタンダード。けれど、スタンダードポップスといえど、ビーチボーイズのような60年代風からストレートなロックに加え、シンセ中心の幻想的なものまで、今作の楽曲はそのアレンジの多彩さが素晴らしい。そして、一見ごく当たり前のラヴソングに見えて、諦念と哲学的な趣きのある文学的な歌詞がそこに乗っかり、聴く人に愛の形を問いただすのである。『MY WOMAN』はそんな彼女の総合的な力量が結実した充実の作品。

 

3. D.A.N./D.A.N.

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バンドがエレクトロニックミュージックをやろうとすると、まずバンドサウンドありき、その上に電子音を乗せて・・・という順序にどうしてもなりがちなのではないか、と密かに思っているのだが、彼らは全く逆。一度全てをバラバラにしてから組み直すようにして空白の美学を創り上げている(ように思われる)のが、日本のバンドシーンにおいて極めて特異で画期的。というか本当は、バンドという括りに置いておくべきでもない。クラブミュージックとの接点を、「キツさ」を削ぎ落とした、音のレンジの狭いメロウなサウンドにしっかりと引き込んでいく点に彼らの存在の重要性があるのだと思う。

ミニマルでありながら、歌がとてもメロディアスでついつい口ずさみたくなるところや、何層にも重ねたミルフィーユのような音の質感に尋常ではないこだわりが感じられ、聴いていて飽きない仕上がりになっている。本当に何度も聴きました。

 

リリースライブのレポートはこちらを。 

seaweedme.hatenablog.com

 

4.宇多田ヒカル/Fantome

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 宇多田ヒカルはもちろんデビューの頃から知っているけれど、その頃は私はかなり幼かったのもあり、日本のポピュラー音楽にとって何を成し遂げた人なのか?ということについてあまり意識をしたことがなかった。幼かった自分にとっては彼女の存在があまりに当たり前だったからだ。

 

8年間の不在を経てリリースされた今作は、彼女自身の母との関係と喪失を描いた作品になっているのは周知の通りだけれども、母の喪失という具体的な事象だけにとどまらない、大切な人を失ったことのあるすべての人に響く丁寧な言葉の連なりが印象的だった。そういう普遍性を持った作品でもありつつ、全体を通して彼女のルーツであるR&Bを土台に歌がくっきりと浮かび上がるクリアでタフな音づくりが透徹されていて、改めて彼女のサウンドプロダクションにおける非凡さというものをも意識することのできた作品でもあった。

 

5.Warpaint/Heads Up

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私の大好きなWARPAINT、待望の3作目ということで上位に持ってきました。

 

曲調もバラエティ豊かに、ダンサブルでオープンな印象にガラッと変わった3作目。コラージュのような斬新な曲展開が新人とは思えなかったデビュー作、波のように微妙に変化し続けるミニマルな展開を突き詰めた前作を経て、構成の複雑さ斬新さを突き詰める実験的な手法にはもはや余裕を感じる。

そういう意味では、今作は、メンバー各自のソロや別プロジェクトを経ての結果なのか、音の立体感という点のほうに、より躍進が見られる。迫ってくるほど前面に出てくるファットなリズム隊に、空白をしっかり残しながら多種多様な音を、上下左右前後に配置して空間を構築する、透し彫りのような立体感に、ワクワクしっぱなしだった。

 

と、言いつつあまり年間ベストに上がってこないのは、そうした細やかな音づくりの手法に軸足が置かれている反面、暗澹とする世界情勢に対するリアクションとしての作品が目立った今年の流れの中では、メッセージ性に欠けていたからかもしれない。あまり深く考えずに、その時の気分をそのままアウトプットしてしまう身軽さは彼女たちの魅力ではあるのだけれど。

 

でも、2月の来日公演は今から楽しみすぎます!

 

6.Beyonce/LEMONADE

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言わずもがなですが、、、

自分自身に関する表象が核にありながらも、人種もジャンルも多様なアーティストとのコラボレーション、その結果としての振れ幅の大きな楽曲、それらを大衆性をもったものとして聴き得る作品に仕立てた、申し分のない「ポピュラーミュージック」としての強度には、ビヨンセとちゃんと向き合ったことのない私ですら「アーティスト」ビヨンセを意識せざるを得ませんでした。

 

7.Frank Ocean/Blonde

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そもそも彼に興味を抱いたのはリリース時に発表された、彼の手記の生々しくパーソナルな言葉に、やられたのがきっかけでもありました。

そうした告白めいた内容だけでなく、サウンドの面でも、様々な白人インディーロックやエレクトロニカ周辺のアーティストも客演していることもあってか、これまでヒップホップを聴いてこなかった私にとっても実は耳馴染みが良く、この作品が私にとっては今年、ヒップホップに目を向けるようになったきっかけになってくれました。

 

8.Radiohead/A Moon Shaped Pool

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レディオヘッドは実はそこまで熱心なファンではなかったりするのですが、オーケストレーションやアコースティックな響きの美しさが印象的で、今作はよく聴きました。

今にして思うと、"A Moon Shaped Pool"という言葉は、心にぽっかりあいた穴のような空虚、という意味合いが悲しくもしっくりきます。

 

9.OGRE YOU ASSHOLE/ハンドルを離す前に

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余計なものをそぎ落とし、終始淡々としたトーンのまま終わってしまう彼らの作品の不思議な心地よさは、濃厚すぎるグルーヴとコーラスワークにあるのではないかと思わされた。

音数は少なくスカスカなのに、コードや同じ効果音がひたすらずっと鳴っている感じがミツメの『A Long Day』と近しいところもある気がする。D.A.N.もそうだが、今日、日本に新しいロックのかたちというものを求めるとするならば、こうした、ビートに軸足を置いた極端なミニマリズムに、かろうじてその芽を見出すことができるのかもしれない。

 

…などと冷静ぶって書いていますが、このスカスカなのにメロウで骨太という不思議なバランスに、私、すっかり中毒になってしまいました。『フォグランプ』の頃にハマりかけてしかし結局ハマらずに大人になってしまった自分、あの頃はまだ若かったな…

 

10.Solange/A Seat at the Table 

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ビヨンセより、個人的には、柔らかな声と音づくりを徹底するソランジュの方が好みではありました。

インディーロック〜フォークから、チルウェイブなど(EDMではない)エレクトロミュージックがこれまでの守備範囲だった私自身と、R&Bの交点として、気に入った作品。

 

11. A Tribe Called Quest/We got it from Here... Thank You 4 Your service

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ceroの『Obscure Ride』が出た時に盛んに引き合いに出されていたこともあって、メンバーが1人亡くなってしまっている中での、今の、そして最後の彼らを聴けるということで期待していました。ヒップホップに留まらず、ネオ・ソウル風に聴こえる部分もあって、カッコよかった!

 

12.agraph/the shader

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レイ・ハラカミのような人懐っこい音でストーリーを情感たっぷりに描くイメージのあったagraphが、ミュージックコンクレートを思わせる手法で、まるで自然現象のように、ただそこで音楽が鳴っていることだけを追求したことが圧巻。メロディにもリズムにも寄り付かない作風は、日本のエレクトロニカアーティストでは稀有。

彼も今作で『22, a million』のような数学的な意匠を部分的に用いていて、ボン・イヴェールのほうでも書いたように、それは世界を解するための普遍的なキーなのかもしれないと改めて思う。

 

agraphこと、牛尾憲輔に関しては、映画「聲の形」のサントラも非常に良かった。ノイズまじりの汚れた音を汚いまま録り切ることによって、「にじみ」の質感を聴覚において再現する、という共感覚的な離れ業には、この『the shader』の制作過程が存分に生かされていると言って間違いはないはず。

 

今作については前の記事にも書いていますのでご覧ください。

seaweedme.hatenablog.com

 

13.KOHH/DIRTⅡ

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刺青だらけの身体というだけでセンセーショナルな彼だが、あの、そのまま口語のような言葉遣いの不思議なリリックが違和感なくフローに乗っかっていくというだけで、彼がそもそも恐ろしく上手いラッパーであるということを、思い知らされる。きちんとライムとして成立しているのに、むき出しのままの言葉で殴りかかってくるというあの感覚は、KOHHにしか成し得ないのかもれない。

 

14.Seiho/Collapse

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ロマンティシズムという言葉で形容されがちなSeihoだけども、彼の作品はどちらかというと、シュルレアリスムだと思う。ジャケットの写真もよく見ると、本物の生花と比べてなにかが違う。本物の日本ではなく、あくまで外国人が想起するような「日本っぽい」というイメージでしかない(そもそも右に置いてある置物はなんなんだ)。つまり、彼が、あの磨き上げられた濁りの一切ない音で描き出す世界には実体はなく、多分に記号的なのだ。

そんなデフォルメと記号性に満ちた世界観は、記憶や思い出までも、あらゆるものがヴァーチャル世界で記号やシグナルに置き換わったに未来を暗示するかのよう。

 

そういう意味では、agraphの『the shader』が同じく一気に抽象性の高い作品に振り切った点では共通しているにもかかわらず、汚い音で現実の自然現象や世界観をそのまま写し取った作品であることと、この作品が全く対の関係をなしているのが面白い。

「世界の捉え方」という観点を軸に、両者が逆のアウトプットに行き着いたことが、今年らしい必然性なのかもしれない。

 

15.Savages/Adore Life

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前作に比べて、野蛮さだけでなく、どことなく知性が滲み出ているところが最高にクール。こういう女性アーティストが、日本にいてほしい。

 

16.Francis and the Lights/Farewell, Starlite!

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Bon Iverの『22, a million』で使われているヴォーカルハーモナイザー(プリスマイザー)"Messina"を開発したのがこのフランシス・フェアウェル・スターライトということらしく(『22, a million』のブックレットにエクスマキナにかけてか"Ex Messina"という手書き文字がある)、1曲目は出だしからすでにヴォーカルのエフェクトやシンセの一音一音が多層的にきらめき揺らぐ。SFのような遠い未来でR&Bを聴いたらこんな感じだろうか。

 

17.The Lemon Twigs/Do Hollywood

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なかなか強引でおかしなことをやっているのに、エネルギーで押し切ってしまう若さゆえの無鉄砲さ。けれどそういう破壊的な挑戦によって、ポップミュージックのあらゆるジャンルのフォーマットは開拓されてきたのかもしれない。そういう無限の可能性を感じます。

 

18.Whitney/Light Upon the Lake

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カントリー〜フォークロックをベースにしたアメリカーナポップスではあるけれど、ヴォーカルのハイトーンな歌声や、全体的な音づくりにおいても柔らかなコットンのような質感が保たれていて、カントリーの域に留まらない心地よいグッドミュージック。そしてさりげないながらも、静と動の側面が、1曲の中で、また、アルバム通してきっちり繰り広げられていて、曲・アルバムの構成力の高さがうかがえる作品。

 

19.KING/We Are King

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コクトーツインズなどにも影響を受けた幻想的なR&B。ありそうでなかった。この作品もジャンルを超えたクロスオーバーという観点で入れてみました。

私は聴くと心地よくていつも寝てしまいます。

 

20.Terrace Martin/VELVET PORTRAITS

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ケンドリック・ラマーの『To Pimp A Butterfly』にも大きく貢献したプロデューサー、サックスプレイヤー(など)、テラス・マーティンのソロ作品。ヒップホップとLAジャズを行き来する重要人物というだけあって、客演も豪華であるだけでなく、あらゆるブラックミュージックを呑み込んで、それをポップスとして昇華させる手腕が見事で、ブラックミュージックをあまり通ってきていない私でも、本当に、単純に良質なポップスとして繰り返し楽しんで聴いていました。

と、言いつつやはり、彼のケンドリック・ラマーへの貢献や、ヒップホップやソウル、ファンクなどを取り入れた新しいジャズの盛り上がりについてはやはり去年のトピックという感があってか、メディアの今年のベストにはあまり挙がってきていない。2015年の集大成として、意味のある作品ではあるはず。(去年出ていれば・・・)

 

21.Yumi Zouma/Yoncalla

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前作までのEP2作は、フレンチポップのような淡くキュートなメロディに引っ張られていたものの(実際はニュージーランドのバンドで歌詞も英語なのにエセフランス語っぽく聴こえる瞬間があるのは意図的なのか・・・?)、オーソドックスな四つ打ちと比較的のっぺりとした音づくりのせいか、良く言えば懐かしいが、悪く言えばいなたいドリームポップの域を抜け出ていなかったYumi Zouma。

今作は、丸っこく粒立ちした音がミニマルに使われているだけでなく、リズムのバックビート感がかなり意識されていて、劇的に立体感が進化したのに驚いた。またメロディの上品さはそのままに透明感を増したウィスパーヴォイスもより洗練されていて、耳に残る。

少し前にドリームポップにハマっていた私としては、逆にある時期から、ドリームポップの陥る没個性に一気に辟易してしまっていたのだが、その中では、このバンドはきちんと独自のスタイルを確立しつつある珍しい例だと思う。

 

22.Jack Garratt/Phase

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フジロックに来ていたの知りませんでした。

後半ダレるのが残念ですが、「Breath Life」がとにかく好き。

 

23.ミツメ/A Long Day

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互いの間を縫うように、コードを鳴らし続ける、輪郭のはっきりした2本のギターの音の絡み合い。その危ういバランスの真ん中に、凜と筋を通すような川辺素のヴォーカルの涼やかさに改めて脱帽。

 

24.yahyel/Flesh and Blood

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Spotifyをシャッフルで聴いていたら洋楽に混じって「Once」が流れて、一瞬、yahyelだと気付かなかった私。英語だとかいう以前に、シンセの音の厚みに、それこそFrancis and the Lightsなどと一緒にシャッフルで聴いても断絶を感じさせない質感を再現できているところがまず評価されるべきなのだろう。

 

25.toddle/Vacantly

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田渕ひさ子、ギターはキレキレなのに、歌がへたうまというアンバランスさにむしろ妙な味みたいなところはあったけれども、この5年間にソロや他プロジェクトを経て、今作はソングライティングとヴォーカルがぐっとたくましくなっていた。ブッチャーズ吉村の魂はここに引き継がれていたのだ。

 

下記記事で詳しく書いています。 

seaweedme.hatenablog.com

  

26.Galileo Galilei/Sea and The Darkness

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ガリレオ・ガリレイは正直自分の好みでは元々なかったのですが、ひょんなことでこのラストアルバムを聴いたところ、初期の頃に抱いていたイメージと違う印象を抱いて驚いたので入れてみました。
もうあとちょっとで、いやもうすでに少し汚れてしまったかもしれない、少年性の「こわれやすさ」をギリギリのところで切り取ったような…そんな奇跡的な瞬間を閉じ込めた作品。だからこそ、その中でも1番なんでもないシンプルなポップソング「ユニーク」が、何よりも愛おしい。

 

27.tortoise/The Catastrophist

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メロディのキャッチーさ、ジャジーなアプローチなど取り入れつつ、短尺の曲でまとめた作品。トータスの難解さが苦手な人にも今作は比較的わかりやすいんじゃないでしょうか…

フジロックでライブは、それはそれでプログレッシヴで圧巻でしたが。あの時間、ベックじゃなくてトータスを観てた人は変態です(私も)。

 

28.Stephen Steinbrink/Anagrams

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アコースティックな楽曲も素敵ですが、インディーオルタナロック女子として青春を生きてしまった私の胸を、懐かしさが掴んで離さないのは、甘く歪んだギターがノスタルジックなM3「Psychic Daydream」。

 

29.METAFIVE/META

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しっかり踊らせるテクノなのに、ちゃんと歌モノなのがさすが。LEO今井の暑苦しい歌がこんなに爽やかに聴こえるなんて…彼のヴォーカリストとして力量にも気付かされました。そして小山田圭吾のギターの上手いのなんの。

 

30.きのこ帝国/愛のゆくえ

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「東京」あたりのポップ転向で興味を失っていた、典型的な元ファンの私。そんな私でも今回の彼らのさらなる変貌は「進化」であると讃えたい。

 

今作の白眉は「MOON WALK」〜「夏の影」の流れと言って過言ではないはず。レゲエ〜ダブに振り切った音づくりが、初期のシューゲイザー風の楽曲と、このところの優しいグッドポップ路線の交点としてここまで機能するとは。言うなれば、初期作「渦になる」のエモーションをその名の通り、攪拌して、その上澄みをすくい上げたような淡さと純度。それが胸を打つ。

「夏の影」はもろにレゲエビートだけれど、「MOON WALK」の間奏での歌声のイコライジングを大胆に振り切ってみたりする遊びだけでなく、ダビーで雲に包まれるような音作りなどはまるでフィッシュマンズ

最初期にどこかのライターさんが佐藤千亜妃の声は佐藤伸治を彷彿とさせる、と指摘してたのはある意味すごい先見の明だったんだな…と。確かに。彼女の声はダブにもよくマッチするのだなあ。

 ただ、ギターソロ、特にアウトロに持ってくるそれがちょっとそろそろワンパターンなので、次作はその変化も期待したいところ。

 

 

以上!

正味2〜3日で書いたのでコメントが雑ですがとりあえず年内に完成できてよかった!

田渕ひさ子という「シンガーソングライター」(toddle/Vacantlyのちょっとしたレビュー)

先週末になりますが、toddleのインストアライブを見てまいりました@タワー新宿。

 

アコースティックセットでのtoddleとしてのライブは5年ぶり(つまり前作リリース時の同じインストアライブ)とのこと。

あのいわゆる「田渕ひさ子的」なキレキレの轟音ギターとは似つかないたいへんピースフルなミニライブで。

お客さんとメンバーの微妙にぎこちない緊張感と距離感もまた一興

 

と言いつつ、やっぱりひさ子さんのギターはエレアコなのにジャキッとバキッとした音がするのはやっぱりあの独特なストロークの当て方かなあと思いながら、元ひさ子フォロワー女子的にはガン見してしまいました。。

  

実のところ私は、普段バンドでやっているアーティストのアコースティックセットってあんまり面白く思えないタイプだったりもするのですが、

今回、アコースティックで聴いて改めて認識しました、今回のアルバムの楽曲は、アコースティックアレンジに違和感のないとても柔らかなものが多いんですね。

それは、アレンジが、ということではなくて、メロディラインやコーラスワークがそうさせているように思います。

 

一度、ひさ子さんのアコースティックのソロの弾き語りを観たこともありますが、

その時観たのと同じように、以前のtoddleの印象と違って歌が柔らかくなってらっしゃいます。

 

 

メロディの力が楽曲を引っ張れる、そんな変化が今作にはあった。

ということ。

 

田渕ひさ子という「シンガーソングライター」 

Vacantly

Vacantly

 

 

toddle5年ぶり4枚目のアルバム『Vacantly』。

 

まず、ドラマーがこの5年の途中で変わっており、リズムは抑揚を効かせた細やかに弾むようなスタイルから一変、タイトなパワードラムにシフトしているものの、躍動感という点では相変わらずの路線。

 

むしろ今回大きな変化があったのはメロディの存在感。

特に歌の旋律は、これまでになく豊かで多彩な表情を見せてくれている。

 

toddleのこれまでの3作は、bloodthirsty butchers吉村秀樹がプロデュースを務めた作品だった。周知の通り、彼を喪ったことは日本のロックミュージック界にとってももちろんだが、とりわけ、toddle、そしてリーダー田渕ひさ子にとってはより一層大きな影を落としたにちがいない。

 

その別れは、もともとマイペースに活動してきたtoddleの足を止め、それゆえ前作から5年というブランクを必要とさせた一つの理由でもあるだろうがその一方で、ブッチャーズでの活動が必然的にほぼなくなった田渕ひさ子の活動の幅を広げることにも、結果的にはつながっていったように思う。

 

LAMAKoji Nakamuraのバンドへのメンバーとしての参加、SPANK PAGEBase Ball Bearといった他バンドのサポート、吉澤嘉代子黒木渚タルトタタンといった女性シンガーやユニットのバックバンド、変わり種で言えばagraphこと牛尾憲輔の手がけたアニメ「ピンポン」の劇伴への参加、といった「ギタリスト」としての数々のコラボレーション。

そして忘れてはいけないのが、本人名義のソロでの活動であるアコースティックギターの弾き語り。

 

特に、弾き語りについてはライブだけでなく手売りEPも自ら完成させて販売しており、ここに注力することができるようになったのはとても大きな変化だったように思える。

オファーがあって「ギタリスト」として仕事を受けるのとは違い、本人名義で自ら曲を書きギターを弾きシンガーソングライターとして歌う、というのは自らの意思がないと成り立たないだけでなく、toddleに直結する活動でもあるのだから。

 

はじめに書いたように、今作の楽曲のメロディラインは動きも豊かでカラフル。堅いストレートなロック、といった印象の強かった1stアルバム『I dedicate D chord』の時から比べると、今作では歌のメロディへ大きく軸足を動かしたことは歴然だ。

それはやはり「歌を作る」ことに純粋に焦点が絞られる弾き語りというスタイルの活動を通じて、彼女の「ソングライター」としての技量がぐっと高まったことが大きかったのだと思う。

 

また今作では田渕ひさ子のギターの代名詞である切り裂くような攻撃的な歪みは影を潜めている反面、彼女のギターのもう一つの魅力である、芯が太くエッジーで、それでいて伸びやかで艶っぽい一面を聴くことができ、それがまたメロディを引き立たせることに非常に貢献している。

 

さらに、そうしたメロディに寄り添うように、以前は硬さのあった歌声も随分と優しく柔らかく、「弾き語り的」になった。

随所に影や寂しさをにじませる歌詞は、曖昧にぼかすような表現と訥々とした語り口でありながらも、パートナーを喪うという経験を経た後の彼女自身の言葉であると思うとやはり生々しく感じられる。

自分の言葉で自分の歌を照れ無く表現していくという意思が田渕ひさ子に一層強く現れるようになった変化にはどうにも、遠くから彼女の背中をそっと押す吉村が遺した魂が見え隠れしているような気がしてならない。・・・なんと切なく温かい変化だろうか。

 

 

エッジの効いたサウンドとあくまでポップで柔らかな歌メロ、そして寂しげでどこまでもやさしい歌。

それは、言ってみれば、太陽の照りつける夏の昼下がりの甘く切ないノスタルジーのよう。

 

そんな情景がよく似合う、「シンガーソングライター」田渕ひさ子の創り出すtoddleというスタイルが、今、ゆっくりと、はっきりと見えてきた。

名前の付けられない温かくてちょっとだけ苦い感情がじんわりと訪れる、素敵なアルバムです。

 

フジロックは単なるフェスではなくフジロックという”仕組み”だった、という話

遅ればせながら、フジロックに数年ぶりに行ってまいりました、というお話です。

 

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▲ブレブレなこの一枚しかなかった

 

これは、今年は比較的観たいアーティストが多いから、という至極単純な動機によるもの。もちろん特段観たいアーティストがいなければ行かないということが当然理性的だとすら思っていた私。

 

さて、そんな私とは対照的に、周知の通り、フジロックにはこのイベントそのものへの熱狂的なファンがついている。

国内で年間通じて至る所で大小様々なフェスが誰がどう見ても飽和している中で、フジロックというのは日本におけるフェスの起源であり、しかしながら、参加者の陶酔ぶりにおいては、最も異様なフェスでもあるとも言えると思う。

 

たとえばこんな常連客。 

business.nikkeibp.co.jp

 

「盆暮れ正月フジロック」。
そう平然と言い放つ常連客、自称「フジロッカー」達のフジロックへの熱くみなぎるパワー、いや、陶酔ぶりたるや、まさにユートピアの甘美さに恍惚するかのごとく。

しかし正直言って、その熱量はいささか盲目的すぎるのではと多少辟易していた。

 

 

いや、実際のところは、頭でこそ理解していた。だが納得できていなかった、

と言うほうが正しい。

 

 

というのも、以前参加した際には、ひどい豪雨と寒さに見まわれ、また椅子のひとつも持っていないために座ることもできず、それはもう惨憺たる経験をしたことも関係している。もちろん常連の客からすれば「当然だ、ざまあみろ」と言われるのも無理ないほど、なめきった装備だったことは認めよう。しかしやはり不満は残った。

 

そもそもとにかく混む。入場に2時間、トイレに30分。ステージ間を移動するのにいたっては朝の新橋駅といい勝負といったところ。それまでのフェス経験の浅さもあってか、そうした状況を、しかし運営側や参加者が甘んじて受け入れているように見えることに失望さえした。そんな私がフジロックに熱狂するはずは毛頭ないのは明らかだった。

 

 

とは言え、今回は例を見ないほど天候に恵まれたこともあり、今まで見えてなかったものが、見えてきた気がする。それは言うなれば、フジロックフジロックたらしめている構造と言ってもいい。

 

 

ここで挙げることはおそらくさほど目新しい視点ではないはずだ。

すでに長らく語り尽くされてきたこととは思うが、しかし今回自分の中でやっと肚落ちしたという、まあ個人的な備忘録として残しておこうと思う。

 

 

まず、前提として、自然に囲まれた環境であるというところは大きい。もちろん、大方のフェスもそうだと思うが、比較的都内からもちょっとした気持ちでも行ける距離でありながら大自然を享受できる、というところは、単に「フェス」ということに留まらず、ひとつのレジャーとして支持されるにあたり十分な前提条件であると言える。

 

また環境的な側面を挙げるならば、食べ物、装飾やクオリティも申し分ない。

 

装飾等についてはあまりこだわりもないようなフェスもある中、フジロックはとことん「大人の桃源郷」イメージを様々な演出のかたちで表現する。一見かけ離れたトーンに見えるエリアも、よく考えれば「大人の桃源郷」というテーマ性が背後に貫かれていることがわかる。

 FIELD OF HEAVENのように取り囲む自然をさらに十二分に感じさせるウッディなトーンで統一されたエリアや、かたやTHE PALACE OF WONDER付近のようにサイケデリックでどこかレトロなエリアなど、まさしくそうだ。

そしてそれぞれ区画が分かれているため、ごちゃごちゃとした印象がないところに洗練が感じられる。これはどことなくディズニーランドを彷彿とさせる手法かもしれない。

 

 

食べ物のクオリティについては、他も大きなフェスであれば同程度は担保されているはずだが、フジロックの食べ物にはどうも、やすやすとは欺かれない大人の舌も満足させる本格感がある。

美味しくもなければどれも同じような地元のお祭りの模擬店の食べ物など、私自身は子どもだましのように感じてしまって食べる気も起こらない人間だが、

フジロックの食べ物は「ちゃんとしたお店がちゃんと作っている」感じがあって、実際に食べてもハズレのない満足感が得られる。

 

 

 

そう、こうして見ると、フジロックは実は、あくせくと働き、本人の意識のあるなしに関わらず、どこか疲れた、しかし精神の成熟した「大人たち」を充足させることにスコープを当てた「大人たちのためのレジャー」として、周到にデザインされていると気づかされる。

 

 

・・・まあ、冒頭に挙げた記事の筆者のような

ただ最高にうまい酒を飲みにいってるんだと思う。酒のアテが極上の生演奏で、そして森の緑。

なんて言い草はさすがにちょっとキザすぎると思うけれど。。アサヒビールのオウンドメディアだもんだからお酒について語るのは仕方ないにしてもね)

 

 

さて、一方で、フジロックというフェスは、「ハード」「ソフト」の両面においてハードルが高いフェスだとも感じさせられる。

ハードというのは、物理的、身体的な側面を指している。

一方ソフトというのは、コンテンツ、そして心理的な側面のことを指す。

 

 

ハード面に関しては、その環境のタフさは言うまでもない。

その環境を避けたい人はそもそもフジロックを夏フェス・レジャーの選択肢から自ずと外しているだろう。

 

しかし過酷環境ゆえ、その攻略性がかえっておもしろさを感じさせる要素にもなり得そうだ。

必ずと言っていいほど雨が降り、寒くなるという自然環境下ゆえに、不自由なく過ごすための工夫や知恵が参加者には求められる。

また会場が混雑することは、どのタイミングで、どのようなルートで会場内を移動しお目当てのステージを観、食事をとり、そしてトイレに並ぶかという戦略を練る際のスパイスにもなろう。もちろん、それを見越して無理せず過ごそう、という戦略もありだ。

そうした自由な戦略性を楽しめることもまた、フジロッカーの条件でもあったりするのだろう。

 

 

こうしたハード的なハードルの高さについては、台風直撃のあの散々な初年度の後に雑誌メディアを中心に意図的な啓蒙がなされてきたわけであるが、今ではすっかり、個人のブログあるいはSNSで互いに共有し合うエコシステムが出来上がっている。

 

しかしそうした常連客による語りは一方で (これは、極めて個人的な印象論でろうことは自覚しているので慎重に言葉を選ぶが) 非参加者にとってはある種の心理的な壁を感じさせるものにもなり得るのではないだろうか。

 

ハードな環境を何度も乗り切ってきているからこそ、「自称フジロッカー」の常連客の語りの背後には、程度の差こそあれ、自尊心と優越感が見え隠れしてしてしまう印象を受けることがあるのだが、どうだろうか。

 

そうしたフジロッカーたちのハード的なハードルに関する語りはもちろん羨望を喚起するとともにに、フジロック初心者にはおおいに参考になるが、

他方でどことなく漂うその自尊心の匂いに、多少なりと私のようなフジロック初心者には「うかつに近寄り難い」「生半可な気持ちで参加してはならない」という印象を与え、心理的な壁を築く場合があるかもしれない・・・少なくとも自意識過剰な私の場合は、だけれども。

 

 

ソフトについて忘れてはいけないのが、出演アーティストの独自性だ。

若者向けの邦楽ロックバンドが一堂に会するROCK IN JAPAN FES.

欧米で今まさにホットなポップミュージックが比較的ジャンルレスにブッキングされたSUMMER SONIC

など、これら他の大規模フェスと比べても、ロックを中心に日本では知名度の低いインディーアーティストやワールドミュージックのアーティストまでブッキングされているのがフジロックの特徴。

これはそれぞれの主催者の特色に影響されているところは大きいが、特にフジロックは硬派で玄人ウケする、悪く言えばさほど一般ウケの見込めないアーティストも多く、

普段からこうした「非王道」のポップミュージックや難解な音楽に親しんでいなければあまり魅力的に映らないようなラインナップであることから、時に閉鎖的と揶揄される。

 

しかしながら思うに、その閉鎖性こそがフジロックを「守っている」、最大の武器ではないだろうか。

たとえば、ROCK IN JAPAN FES.SUMMER SONICは知名度のあるアーティストが多く、間口が広いからこそ、会場では良くも悪くもイベントやお祭りが好物の、ただフェスという開放的な場ではしゃぐことを目的としているように思われる人も目に付いてしまう。

対してフジロックはそういったタイプの参加者が、(いるにはいるが)比較的少ないように思える。これは今回参加して気付いた最も印象的だった点、と言ってもいい。(いや、正確に言えば「何も目につかなかった」わけだが)

 

 

もちろん、「ただ騒ぎたいだけの人は音楽の造詣が浅い」と貶めたいわけではない。

が、やはりアーティストにはそれぞれ客層というものがある。

今年に至っては20周年というのに(ヘッドライナーの知名度でバランスを取りつつも)ここまで国内での知名度に頼らない徹底した独自路線のラインナップには、集めたい客層を意識した意図的なものを感じさせられるばかりだ。

 

 

 

ここで挙げてきたようなフジロックのハード的な、ソフト的なハードルは確かに閉鎖性に密接に寄与している。しかし、ここまでの話の流れからお分かりの通り、そのことが参加者の同質性を担保しているように思えるのだ。

  

こうした自己完結的な再生産の輪の中に守られているという事実がフジロックの本質、

つまりフジロックは、自ら閉鎖性を創り出しその閉鎖性に守られているがゆえに、正真正銘の「大人たちのユートピア」として成立しているということ。

そしてその"仕組み"こそがフジロックを単なるフェスとは一線を画した存在たらしめている。

 

  

 

実際に、フジロックの動員数はROCK IN JAPAN FES.SUMMER SONICと比べると少ない。

しかし、これ以上規模が大きくなることや、ポピュラリティーを付加して間口を広げることは求められてないように思えてしまう。

 

というより、そもそも無理だ。

 

苗場に会場を移して以降、地元との関係がこのフェスを支える重要な要素のひとつだ。

今回参加してみて、宿や民間駐車場を運営する地元の人々が、このフェスに想像以上に適応しているのが印象的だった。もちろん、地元にとってはフジロックが一大商機であることは疑いはないわけだが、ただ便乗しているというよりもフジロックやその客の利便性のことを理解していた対応をしてくれている感じがあった。

たとえば今回私が使った宿のように、深夜に帰ってくる客のためにチェックインもせず出入り口は24時間開けておくなど普通は考えられない。それは、余程客を信頼している証拠であり、つまり、フジロッカーのマナーの良さが築き上げてきたものだ。

 

だから、間口を広げ、新しい客層を取り入れた場合、その関係がどう変化するかは残念ながら未知数だ。

 

規模を単純に大きくすることも、会場内のギリギリの人口密度の現状を考えると難しいだろう。

 

また、場所を変えるということもほぼあり得ない。参加者が苗場を愛しているというだけでなく、地元とのこうした蜜月関係は長年築いてきたもので、また一から別の場所で同じように築くというのは、誰にとっても明白に不幸だからだ。

 

今のフジロックは奇跡的なバランス状態なのかもしれない。

 

 

繰り返しになるが、フジロッカーにとっては自分たちがフジロックを守っているというアイデンティティを、フジロックに参加することで自らの内面で強化し続けていると言えると思う。

それは言うなれば、今年のフジロックは来年のフジロックを再生産するために存在している、ということでもある。

 

 

 余談だが、私のようなひねくれ者は「互いに助け合い、自分のことは自分で」というこのイベントのスローガンには、実のところずっと、多少の奇妙さを感じていた。

 

「互いに助け合い、自分のことは自分で」とは、裏を返せば「自分」という監視者を各自自身の内面に自ずから育ませ、それに自分自身を従属させることを強要する、という意味でもあるわけで、

それはまさにフーコーが『監獄の誕生』で指摘した、かの"パノプティコン"的な「規律訓練型権力」のあり方そのものであり*1、そういった意味では権力と対峙する「ロック的」な精神と対立するものとしても捉えられるからだ。

にもかかわらず、むしろそのスローガンは「"DIY"の精神」という、いかにも「ロック的」に聞こえる解釈を与えられることによってその押し付けがましさの不可視化に成功している。なんとも奇妙な構図だ。

 

しかし、ここまで考えてきたことを鑑みるとそのような疑念ははなから意味をなさないようにも思えてくる。

なぜなら、ここまで書いてきたように、フジロックはそもそも、フジロックを愛している人々が自ら進んでフジロックを守りたがるような構造に出来上がっているわけで、むしろそんな彼らは自ら進んでルールに飼い慣らされることを意に介さないのだから。

 

 

・・・さて、こんなことをだらだらと考えていたらすでにフジロックから3週間近くが経ってしまったわけだけれど、

なんだかんだ言って私をこの記事を書くに至らしめたのは、たった1日参加しただけの自身の名残惜しさだったりするわけで、つまりやっぱり私もあーだこーだ言いつつこのユートピアに魅了されてしまったのだと思う。

 

大人たちのユートピアが楽しめるようになったということは、私もだいぶ大人になれたんだということに、しておこう。

*1:こちらの説明がわかりやすかったので引用しました。

自由と管理―パノプティコンと現代社会 - on the ground

フーコーが示したこうした権力の形は、学校、工場、軍隊、病院などあらゆる空間で現れる近代的な権力の在り方だとされ、しばしば「規律訓練型権力」と呼ばれている。その特徴は、支配の対象である各個人に特定の規範を内面化させ、自ら規範に従うよう仕向ける点にある。

5/20 D.A.N.ワンマン"Cirtain"@WWW を観てきました。

2週間も前じゃねえか!というツッコミも聞こえそうですが、
アップするのをすっかり忘れて下書きに入ったままでした。
 
というわけで、
5/20 D.A.N.ワンマンライブ"Cirtain"@WWW 
観てきました。
f:id:seaweedme:20160605145734j:image
 
 
D.A.N.は"EP"を聴いたときから一発で、
「120%くる!」と確信してました。嘘ではありません、この通り。。

当時から大好き、激ハマりしていたわけですが、音源のクオリティについては同年代において、正直レベルがケタ違い。

また、楽曲のアプローチもまるで新しい。

いわゆる東京インディー界隈に括られることが多いですが、「東京のインディーズである」こと以外においては非なるものだと思っています。

このへんの話については別にレビューをするとして……

今回は、初ワンマンの感想のみです。

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5/20 D.A.N. "Cirtain"@WWW

実はこれだけ推しておきながら、どうも日程の相性が悪いのか(?)、個人的には今まで一度も観る機会に恵まれなかったD.A.N.。

そもそもライブの数が増えてきたのが今年に入ったあたりからなのだが、

すでにフェスやイベントで観たお客さんに絶賛されて着実にファンを増やしつつあった中の初ワンマンとあって、会場の観客の期待感は相当みなぎっており、

それゆえの独特な緊張感と興奮の入り混じった空気の中のスタート。

 

彼らの楽曲は、全体的にローな曲調が多いものの、音源を聴く限りでは音のレンジ幅を意図的に狭めているためか、柔らかい質感の統一感がなんとも美しい。

その淡々としてなんとも食えない耳触りが、冷たくはないが熱くもないという独特の心地よさを引き出しているわけだが、

ライブでは、中でもキックがタイトで力強く、また歌も熱っぽくなる部分があったのが新鮮な感覚だった。
中盤のラストに繰り出されたハウス風の楽曲"Dive"でフロアの熱が一段とぐっと上がっていった瞬間には特にそういった感覚が象徴されていたように思う。
 
さらに"Navy" "Cirtain"といった、今回の1st アルバムを代表する楽曲を後半に立て続けに投下。
彼らの楽曲の中でも特に陰のある耽美さに傾倒した2曲だが、
立体的に重ねたシンセの浮遊する音像が、むしろ光を見上げながら深く沈んでいくような夢心地を誘い、
まるで彼らのこれからの道筋が光に開けていくようなイメージと重なった、ライブのハイライトになるシーンとなっていた。
 

テクノロジーの進化か、あるいは流行りか、打ち込みやシンセを多用するバンドも昨今あまたいる中で、
決して音数や音圧で圧倒させるわけではなく、あえて音を「抜き」ながら、緻密に空間を感じさせる立体感を組み立てることへの異常なこだわり、という点にクラブミュージックやミニマルへの他と一線を画した素養を感じさせられるD.A.N.。
 
一気に熱気を煽るのではなく、内側にこもった熱がじりじりと温度を上げ会場をいつの間にか温めていくような、静的な高揚感に満ちたライブパフォーマンス。弱冠22,3才とは思えない円熟味が末恐ろしい。
 
 
来年あたり、ソニックマニアとか出れちゃうんじゃないでしょうか。
ソニマニのコンセプトに、非常に親和性の高いアーティストには間違いない。
 
 
個々の演奏力はすばらしく、リズム隊は手数からニュアンスのつけ方までバッキバキにキレキレ。
("Now It's Dark"をアレンジしてやってたけど冒頭のリズムとかよく思いつくなという…)
 
特にテンポの遅い曲のほうが比較的よくまとまっていた印象。
アルバムリード曲の"Native Dancer"もよかったが、ただ、この曲についてはリズムを細かく詰めまくっているからか、こなれてない、というか、個々の演奏が噛み合ってない感じはあった。
 
ボーカルは力むとちょっとあどけなさが出るのが若干不安定だったものの、逆に、歌い上げる部分のメロウさについてはいい意味で若さを感じさせない。
 
 
とは言え、ステージングはまだまだ硬い印象が。
ライブ運びもそこまで緩急がなかったので、そのあたりが今後の伸びしろかもしれない。
(そこはちゃんと(?)新人らしくてむしろほっとしたくらい。)
 
そういえば、ダブルアンコールで「演る曲がない」と言って"Ghana"をラフなスタイルでハイテンポで演ったあたりで、
やっとバンドもお客さんも、初ワンマンの緊張がほぐれて場が混ざりあってきた感じがしたのでもったいなかったなあと。
 
音源は本当に完成されているので、ライブでのD.A.N.らしさみたいなものを確立していってほしいな、と勝手に上から目線で感じているところです。
 
 
しかし小林うてなちゃんは貫禄と安定感ありました…メンバーを喰う存在感。。
彼女のシャーマニックなコーラスとスティールパンなくしてD.A.N.在らず、って感じですね…
 

最近聴いた新譜:agraphとThe fin. (´-`).。oO(電子音のテクスチャーってやつは奥が深いですね。)

音楽の聴き方とビジネスの仕組みについて書くのもちょっと疲れてきたので、

これまでほぼやったことないんですが、

練習と備忘録がてら、レビューもどきのようなものをぶち込んどこうと思います。

 

やってみると、音楽性の評価のための視座や知識であったり、

過去や現在の他の音楽との連関など、

まだまだ考えるべき切り口の引き出しが少なすぎるな、と痛感しました、、

 

なので、レビューっていうか、ただの感想文です。

 

そんなわけで、最近(といっても1~3月)に聴いたものから抜粋しました。

本当は他にも聴いてますが、書き起こしたのはとりあえず2作です。

 

あまり意識してなかったんですが、選んだ2作はどちらも電子音のテクスチャー(質感)のつくりに惹かれた作品でした。

(余談ですけど、エレクトロニカって、一言でくくるとあまりに幅が広い定義になってしまうくらい、要は細分化されたジャンルなので、どういうものを指しているのかについてどう言葉にしようかいつも悩むんですけど、まあ自分の好きなのはこの類のやつです。)

 

 

文体は探り探りですが…ちょっとカッコつけすぎました(爆)

まあそれくらいしか特徴をつけられなかったので恥をしのんでそのまま晒しときます。

 

agraph / the shader

【Amazon.co.jp限定】the shader [国内盤]特典マグネット付 (BRC497)

メーカー: BEAT RECORDS

発売日: 2016/02/03

 

擦りガラスを通して外を眺めているような、あるいは深い水中から水面を見上げるような、とでも言うような、ともすれば単に音が悪いようにも感じられる音像、という印象の作品。音の鳴っている場所とそれを聴いている自分の間に確固たる隔たりを感じさせる。

前作、前々作の延長になることを意図的に拒んだという今作はたしかに、どこか人懐っこさのあるコロコロとした音像でもって色彩感たっぷりに情景を描いていたこれまでから一転、抽象度の高さで聴き手を突き放している。

 

そのように突き落とされた深いところで鳴っている音の、息苦しいほどにまとわりつく密度の高さ。気の遠くなるほどに塗り込め重ねられた音の群像が、あたかも物質的なかたまりが確かにそこにあるかのような重力を楽曲に持たせている。

ノイズだけで40トラック近く重ねられているというように、決して音量が大きいわけではないのに、曲中のノイズの厚みのせいかその対比で曲間の無音部分にはっとさせられ、そこでやっと息継ぎができるような、そういう重たさがある。

 

ねっとりとした音の質感、その配置、各トラックの音の浮き沈み、それらの組み合わせは有機化合物の構造のような複雑さ。本人もインタビューで語っていたように、これは楽曲というよりも遠ざかり俯瞰することで見えてくる 「構造物」に近いのかもしれないと思う。
これは良い意味だが、 はっきり言ってこの作品は「なにも伝えていない」。「音の鳴っている場を構築する」という、文字面だけ見るとなんとも茫洋とした、メタ的な取り組みなのだ。

 

とはいえ、浮き沈みしながらも現れるメロディに感じる叙情性がこの手のジャンルの陥る難解さをギリギリ回避しているようにも感じられ、そういった意味では前作までのドラマチックな側面もまた引き継がれている。しかしその叙情性は、言語にはならない感情の起伏を表現しているに過ぎないのかもしれない。

 

多すぎる言葉が時に軽々しい作品の氾濫する昨今において、メッセージ性から遠くかけ離れながらもめまいのするような情報量で息もつかせない怪作。

 


agraph - greyscale (video edit)

 比較的前作までのメロディアスな特徴の強いM3。とはいえ「構造」を表現するという意図はこのMVにもよく表れていると思います。

 

 

The fin. / THROUGH THE DEEP

Through The Deep

メーカー: HIP LAND MUSIC

発売日: 2016/03/16

 

多くのバンドは世間に知られていくにつれて多かれ少なかれ、保守的に、すなわちポップで分かりやすい方向に向かいがちだと思っている節があるのだが、彼らはその真逆だ。

どちらかというと歌のメロディを中心に据えて構成されていた前作までの楽曲群と打って変わって、今作はよりポピュラリティから離れたエレクトロニカに傾倒している。

新人でありながらより多くの人に受け入れられる方向付けではなくニッチなジャンルへ向かっていくのはあまり例を見ない、と個人的には思う。

 

前作までも、浮遊感のある打ち込みやシンセの音飾も使われていたわけだが、個人的にはその2つの音の質感はぶつかってケンカしているように感じていた。

また、前述のとおりどちらかというと歌のメロディを中心に組み立てた上でエレクトロニカ「風味」に寄せて仕上げたような楽曲が多かったように思うが、それゆえか作品を通して聴くと曲のバラエティに欠ける印象があった。

 

今作、特に変化があったのはおそらくビートの部分かと思う。前作のアルバムは4つ打ちの生ドラムが基本であったが、今作はよりエレクトロニカ的な側面を核にして聴かせていくにあたってか、生ドラムだけでなく打ち込みの音飾のビートも交ぜ、拍を細かく積み重ねている。タメをしっかり作った後ろノリが心地よい。


音飾、その重ね方にも試行錯誤を感じた。たくさんの音を重ねて空間を埋めるのではなく、必要な音を必要な箇所にミニマルに使うことで、前作までの楽曲よりむしろ奥行きが出ているし、音の質感、リバーブのかけ方のニュアンスも丁寧。

ジャリジャリとしてやや存在感のうるさかったギターの音も自然に溶け込んで、全体としてドリーミーなやわらかさが出ている。

 

本人インタビューではエレクトロニカの中でもアナログなものを好んで聴くと話されていたとおり*1、目指す音楽性自体は前々作、前作とあまり変わっていないとは思うが、今作ではその、電子音であたたかみのある音像を描き、生のバンドサウンドとの調和をとるアプローチがぐっと洗練されてきた。

 彼らの表現したい世界観がとても立体的に見えるようになっており、今後の方向性を示唆する象徴的な位置づけの作品になるはず。

 

 

蛇足だが、やはり、英米からすると、どうしても日本(をはじめとするアジア)はロックミュージックの分野においては、後進的に見えてしまうという壁が越えられない現状があるように思う。

それはロックミュージックの成り立ちや日本での受容の歴史上、ある程度仕方のない部分ではあるが、一方こうしたエレクトロニカ色の強い音楽は言語や思想、社会基盤などに依らないことが多いため、「ボーダーレス」を比較的担保できるのかもしれない。

 

彼らはまだまだ若手でありながら、ダブリンでのMV制作やUK盤リリース、SXSW出演、USツアーなど、海外での活動を意図的に並行して行っているが、今作での音楽性の変化も、ワールドワイドを意識した拡張性のある音楽を志向した結果なのかもしれないとも感じた。

 


The fin. - Through The Deep

タイトルでもあるリード曲のM3にびっくりしました。ビートが洗練されてます。

あと、女子がかわいい。。最後が「蝋人形の館」っぽい展開なのは謎。

 

 

*1:ROCKIN' ON JAPAN 2016年5月号

モダンタイムスの歯車が加速している、エンタメ業界

わたくし先日、ザ・ロキノン大好き系現役大学生と出会う機会がありまして、話をしたところ「最近のバンドの移り変わりが早くて追いつけない」とのことらしい…。

大学生でソレですか。。

 

さて今回は

という話をします。

twitterで、はしょってつぶやいてみたんですが、ちゃんと書き直そうかと。

 

■矢継ぎ早に移り変わる「スピード四つ打ち」バンドの「旬」

冒頭でもふれたように、似たようなバンドが現れてはあっという間に新しいバンドに取って代わられていく。

そのサイクルはどんどん早くなっていて、まさにそうしたバンドの大量生産、大量消費時代という様相を呈しています。

 

代表的なのは、散々言われ尽してきたように、「四つ打ちで速いタテノリのバンド」ではあるかと。

 

というのも、四つ打ちでノリが良い場合、比較的容易に盛り上がるので、一定程度の人気=結果はすぐに出やすい、ということがあると思います。

CDを売ることより、ライブやライブグッズで収益を上げなくてはならない今の音楽業界的には、

「スピード四つ打ち」は言ってみればライブ中心で稼いでいくための「勝ちパターン」のフォーマットになっているといっていいでしょう。

 

つまり、売上としての合格点は最低でも取れる、確実に失敗はしないフォーマットなのだと思われます。

しかも、ある程度の結果が現れるまでが比較的早い、というのもポイントです。

 

もちろん、「売れるかどうか安心できないので、無難に売れそうなフォーマットを取る」

というのはこれまでも定石かとは思いますが、これがどうも過剰になってきている感じがします。

だってこのフォーマットは「ロキノン系」「フェス系のアーティスト」というようにカテゴリ化されてきているくらい多いんですからね。

 

「スピード四つ打ち」量産の背景?

そもそもこの流れの背景にはネット時代の趣味の多様化というご時世も大きく絡んでいます。


メディアやデバイスの種類が少なかった時代に比べ、みんなが一様に同じものに接するより、

今はもっぱら、個々人が自分の見たいものを見たいときに自分だけのデバイスで見るのが当たり前になっていますね。

特に若い世代には顕著で、TVをそもそも持っていないというほど。

 

たとえばこんなインタビュー。(これはTVについて絞ったものですが)

www.advertimes.com

 (下記、発言抜粋)

自分にとっての当たりの情報だけが欲しい

好きな時間に、自分の好きな番組を、観れるようにしてほしい

 

自分が興味のあるコンテンツだけを、自分の好きなタイミングで享受したい、というニーズが高まっているわけです。

スマホなど、パーソナルなデバイスでコンテンツに触れることが当たり前になっているからです。

 

そうなるといろいろな価値観や嗜好に人々が散らばってきます。

もちろん全員が全員バラバラというわけではないですが、、たとえるなら、人々は大都市に集中して住んでいるのではなく、部落が点々と存在しているようなかたちでしょうか。

 

―攻めたものに刺さる人は必ずいます。
ただ、果たして、どれくらいいるのか?どこにいるのか?が、そうした理由からとても予測しづらくなっているのです。

 

当たるか当たらないか、やってみないことにはますますわからない時代なのに、そんなものに投資できる勇気もない。

それはエンタメ業界の体力がないということの裏返しでもあるのです。ハズレが許されないほど余裕がないということ・・・

 

しかもじっくり腰を据えて育てる時間すらかけられないから、早く結果が出るモノのほうがなお良いとされているように見えます。

 

もちろん、その分早く「消費」されつくしてしまう=飽きられてしまう、ので、新しいバンドへの乗り換えがますます助長される ・・・

といった循環につながっているようにも思えますが。

 

それが「四つ打ちで速いタテノリのバンド」がもてはやされ、次々に投入されていっている背景のように思えてなりません。

 

■余裕のなさが生む、エンタメ業界の「モダンタイムス化」

とりあえず合格点の数字を追求するために冒険はせず、それなりに支持層の見込めるモノに飛びつきがちというこの傾向は、

いわゆるバンドミュージックだけでなく、ほかのエンタメ分野にも見受けられそうです。


歌番組の出演者がいつ見ても同じ顔ぶれなのも、一発当てた芸人や俳優、タレントが起用されまくった挙句すぐに消えていく現象も、あるいは、同じようなテレビ番組が多いのも、

根っこは同じと言えるでしょう。

 

「国民的」と冠をつけられがちな、AKBやジャニーズやEXILE TRIBEのみなさんだって、国民全員が好きなわけではもちろんありません。

というか結構な割合の人が実はそんなに興味はないと思います。

 

が、とはいえ他に比べれば好きな人がそれなりに多いのもまた事実。

 

ファンのみなさんの分だけ視聴率が取れれば、このご時世としては、まあ及第点の数字は取れそうな気がします。

よって、とりあえずAKBやジャニーズやEXILE TRIBEのみなさんを出しておけば、数字上は大コケすることはなさそうです。安心です。

 

「最近の歌番組は、いつも同じ人ばかり出ていて、興味がわかない、つまらない」

という声の背景には、そんな思惑が想像できます。

 

 

ある程度売れると分かりきっている金太郎飴のようなものを矢継ぎ早にとっかえひっかえ大量生産することで生き延びているのが今のエンタメ業界だとすれば、近い将来、歪みが出てしまうのでしょうか。

それはまるでチャップリンのモダンタイムスのようにも見えてきてなんだか複雑な気持ちになっている、今日この頃です。

 

サムネイル引用元:

Amazon.co.jp | モダン・タイムス [DVD] DVD・ブルーレイ - チャールズ・チャップリン, ポーレット・ゴダード, チェスター・コンクリン

音楽の魔法の“かけられ方”に口を出したくなるリスナー事情 ≪雑記≫

・・・さすがにこうも放置するのはどうかと思ったので、つなぎですけど、とりとめもないことを書こうかと思います。オチは無いです。

 

私はGalileo Galileiは全然聴いてこなかったんですけど、今度のアルバムは、仕事をしながらふと耳にして(ラストアルバムですが)とってもハッとしました。

 

Sea and The Darkness(初回生産限定盤)(DVD付)

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作品そのものの感想は別の機会に(あるのか?)、、として、

当ブログとして気になったのはこっち。。

 

まあここで私がこのように意見を述べていることすらすでにアレなのですが、
「近年」というところがちょっと気になりまして。
「以前との違い」の匂いがするもの、いちいち気になるんですよ、ハイ。。


さて、ここ数年一般人によるそういった言説が増えてきたことには大きく3つ、時代の流れとしての要因があると思うのですね。

 

1.UGCの普遍化

一般個人が、つぶやき・数秒動画投稿などもすべて含め、ネット上でコンテンツを発信するということが当たり前になったと同時に、何かに対し意見、評価するということもまた普遍化したのが、ここ数年であると思うのですね。
もちろん、だいぶ前から起こっていることではあるのですけど、レイトマジョリティにとってもSNSがインフラ化したのはやっぱり特にここ数年なのだと。
twitterに代表されるSNSがそうしたレイトマジョリティにも本格的に一般化したのは3.11がきっかけだったとも言われていますし、実感としても2010年くらいはまだ早耳な人たちがぼちぼち使い始めたくらいだったなあと思い出しています。

これは、そもそも一個人の意見が単純にオープンになって目立つようになった(アーティスト個人にとっても簡単に目に付くようになった)ということとも言えます。


2.個人での音楽制作環境の容易化
これは前の項目を音楽に絞ったような内容ではありますが、個人での音楽制作環境はここ数年で劇的に進み、またその発信の場や方法も多様になってきたので、いち個人が楽曲制作者となる事のハードルが、以前よりも下がってきました。


とは言え、みんながみんな楽曲を作るわけではないのは確か。
けれども一つ言えるのは、誰でもその気になれば「そうなりえる、チャンスは開かれている」という環境は整えられたということ。


実際宅録でプロ並みの音源を作ってしまう人も最近は多いですよね。ハイクオリティな楽曲制作ノウハウは、もはやプロミュージシャンの特権ではなくなりつつあると言える時代にあるのかも。

少なくとも、プロとアマチュアの境界は以前に比べれば、曖昧でぼやけたものになっています。

こうした「プロ」の位置づけの相対的な変化は、たとえ実際自分で楽曲を作らない人にとっても自身もまたプロと同じか近い地平に立つことができるという錯覚を無意識のうちに与えているのかもしれませんね。言い換えると、「プロ」の神格化のベールが剥がれつつある、ということ。

それゆえに、プロの作った楽曲に意見したくなる、「なんちゃってA&Rマン」に陥っていく人は多いのかも。

まあ実際に、「やる」と、「やろうと思えばやれる環境ではある」ことの違いはもちろん大きいと思いますが。


3.音楽市場の縮小の顕在化
正直言うと実はこれが一番大きい要因ではないかと思ってます。

昨今、音楽市場の縮小についての話題は耳タコというくらいにあふれかえっては一般の人にも認識されるところとなっているかと思いますが、

以前は音楽業界といえば、きらびやかでスターダムなイメージが強かったと思います。

もちろん今もそうしたイメージはあるかもしれませんが、

やっぱり「音楽業界って今キビしいんだってね」「CD売れないんだってね」「アーティストも昔みたいに食っていけなくて大変ね」という悲しいうわさのもと、“エンターテイメント産業”としてのシビアでビジネス的な側面の存在自体が見え隠れするようになってきたのがここ数年ですね。


音楽業界という謎のエリアは、未知のベールに包まれているからこそ、ある意味特別な憧れの存在だった。
それが音楽エンタメはいまや食っていけないと、暴かれ始めているわけです。

たとえるなら、ディズニーランドの裏側で、ミッキーの中からヘトヘトになって出てきたおっさんを見ちゃったような感じでしょうか?(あまり上手い例ではなかった・・・)


夢のベールが剥がれて現実が浮き彫りになった。「音楽業界は腐ってる」なんて言われれば言われるほど

「だったら、もっとこうしたほうがいいんじゃないの?!」

・・・と、つい聴き手も口を挟みたくなっちゃっている、ということ。

 

良い音楽を作れば勝手に売れる時代は終わった、と聴き手もすでにわかっている。

聴き手も、ただアーティストの魔法にかけられて夢を見せてもらうのではなく、

“魔法のかけられ方”に意識が向くようになっているのでしょう。

 

 

さて。

私個人の意見としては、こうした時代の流れもありますし(特に1.2.は純粋な、時代にしたがった環境の変化なので)
一般人がA&R気取りで意見することそれ自体については、別段目くじらを立てることでもないと思っています。
(まあ私もそんなカンチガイ野郎の一人なわけですし。笑)

なので尾崎君のは過剰反応のようにも感じてしまいますが(というかたぶんそういう性格なんでしょうけど)、きっと誰ともわからない人が無責任で辛辣なことを彼に浴びせたりしてたんでしょうね。。。


でも、3.で書いたように、

音楽(で生きていくにあたって)は「夢」の部分だけを見せられなくなってきているということに興味関心を抱くリスナーがいるとともに、最近では、そのことを自分たちでも考え、向き合うアーティストも現れてきていますが、
一方で、現実なんて見たくなくて音楽の魔法に盲目でありたいリスナー、そしてそうであることをリスナーに求めるアーティストも現状たくさんいる気がします。

どちらが良いのかはわかりませんが、でもきっと、音楽の「夢」だけではない現実は、これからもさらにオープンになっていくでしょう。


CDを売るということだけに依存するところからどう変わっていけるかに、音楽(業界)の未来はかかっていると思いますが、でも現状、そのやり方はまだ試行錯誤の渦中なんですよねえ。

そのひとつとして、「夢」だけでない部分をあえて提示しながら、リスナーやファンとの新しい関係性を結んでいくアーティストも、どんどん出てくるのかもしれません。

 

(抽象的な結論になってしまった・・・汗)