週末ひとりけんきゅうしつ

つれづれなるままにひぐらし音楽と社会をながめる人のひとりごと。(もはや週末関係ない)

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「ネオ・シティポップ」という新しいカウンターカルチャーの在り方の可能性 ―(3)ネオ・シティポップのカウンターカルチャー的側面

第3回目です。

第3回目、第4回目は、これまでに比べると、私の個人的な偏見、感覚をもとに書いている側面が強くなっているかと思います。

 

特に前の記事から使い始めている「ロキノン系」という言葉、これの指すものについては極めて曖昧で語りづらく、ゆえに慎重に扱わなくてはいけない言葉ですね。

みな、それぞれが「イメージ」として使っている部分も多く、それゆえ様々な解釈、異論も多いのは周知の通り。

 

人々のイメージの中で生み出されてきた概念だからこそ、言説空間でどのように扱われてきたのかという点は考慮しなくてはいけないとは思いますが、

その点については今後の大きな課題として、

 

ここではひとまず、ブラックボックスとして先に進みたいと思います。

 

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これまでACCの例で見てきたように、
この「ロキノン系」が仮に、友情・努力によって勝ち上がる「バンドドリーム」を胸に、

縦ノリの一体感・メッセージと共感を重視して若者の人気者になっていったバンドたちだと乱暴にくくってしまえば、
ACCのような、そうしたあり方へのオルタナティブな選択肢を提示するバンドスタイルが現れている昨今の構図、というのは興味深い。

昨今、ロックフェスが社会現象となり、各フェスは年々規模を拡大してきた。日本のロックバンドが当然のように地上波の音楽番組にも出るようにもなった。少し前に比べて、彼らが「ブラウン管の中で評価される」のが当たり前になった感覚がある。

 

けれども彼らはかつては「ブラウン管の中で評価される」のを拒んでいたのではなかったか。

(注:初期のBUMP OF CHIKENのいわゆる「ブラウン管発言」をフィーチャーして取り上げてますが、これは象徴として使いやすかったためで特にそれ以上の意味はありません…。)

 

大人たちへの不信・不満、あるいは若さゆえの内省的な衝動を核として音楽を生み若者の共感を得てきた「ロキノン系」「邦楽ロック」と呼ばれたものは、今やメインストリームカルチャーの1つとなりつつあるのではないか。

そのせいなのか分からないが、音楽性も、ファンの振る舞いも、ロックフェスブームのせいなのか、どこか均質的とも言えなくはない。

 

ACCに限って言えば「頭打ち」という言葉が本人たちから出てきたように、
こうした昨今の状況を見、なにか別のことをしなければという危機感があったのかもしれない。

彼らは、実は若手と言えるほど、年齢的には若くないようだが、活動自体の開始はかなり最近、という点ではCDが売れないという悲観的な状況ばかりが騒がれているのを体感してきた上で活動を始めた世代である。
だからこそ、暑さや夢だけで押し切れる、そういう時代ではない、と肌感覚で感じている世代でもあるのだろう。

 

感情的な要素は歌詞から排され、海のむこうで再評価の動きのあるソウルやディスコテーク的なエッセンスをベースに、メロディを立たせ、エレポップ風のシンセ音をアクセントに重ね、とにかく耳障りよく心地よくまとめた楽曲も、

音数が多く性急な曲に同世代の共感を誘うエモーショナルな歌詞を乗せ煽るような、ロックフェス的バンドたちの楽曲とは対照的だが、

それだけでなく、
自分たちの見せ方、楽曲の広げ方を、自分たちで、クールに知的に、戦略的に管理する方法論、
暑さや一体感を求めるのではなく、そこにいる人々が有機的に混じり合う多幸感のある空間を提供するという考え方、
それらは、そのあり方自体をもって、地道に勝ち上がる従来のバンドスタイルを否定する意志表明なのかもしれない。

 

若者を熱狂させるロックフェス的なバンドは、かつてオルタナティブと見なされていた00年代を代表するバンド、アジカンバンプなどが1つのルーツとしているとされる。

 

アジカンが一番のルーツにあるってことは全然恥ずかしいことじゃないし。確かに「ルーツはボブ・ディランです」とか言った方が世の中的には格好いいかもしらんけど(笑)。でも別に僕らはそれを格好いいとは思わないし、僕らは信じたバンドをこれからも信じ続ければいいと思うし、だから、アジカンがルーツにあるって言われること自体への抵抗は、全然ないですね。*1

 

そうした今の「ロキノン系」バンドが、もしかすると、いまや、彼らACCのような存在によって、

「もうすでに古いスタイル」として否定される構造の端緒を我々は見ているのかもしれない

 

ちなみに、こうした「かつてカウンター(注:メインカルチャーとは異なるオルタナティブな、という意)カルチャーであったものがもはやメインカルチャーとして広く消費されるようになった段階で、そうした状況に異を唱える」あり方というのは、70年代後半のパンクムーブメントにも構造的には似ているように見える。
ただ一方で、直接的に、また音楽性を鑑みたとき、日本においては、ニューミュージック、あるいはバンドブームの否定の上に登場した、90年代初頭の渋谷系の在り方と相似形であるように感じさせられる。

 

私小説的で、聴き手の共感をさそう歌詞を特徴とした、ニューミュージック、
あるいは日本でも独自の「ロック」が生まれるのではないかと期待感を抱かせながらも結局は尻すぼみとなったイカ天を発端としたバンドブーム、
これらを否定するかのように、
メッセージ性を拒絶し、海外の音楽シーンの動きと連動しつつ、時代や国を越えたポップスをルーツとした楽曲を生み出しながら
のらりくらりと捉えどころがないドライな態度で大人たちを翻弄し、その実、確信犯的にそれまでのポップスのあり方を否定する

オシャレで新しいスタイル、と(個人的には解釈しているのだが)して渋谷系の一側面を捉えるとすれば、ACCはその点において似ていると言えそうだ。

 

ACCは(本人たちはあまりそのような自覚はないようだが)一般にシティポップとしてくくられる傾向にある。
また、このところ同様な、いわゆる典型的なロックフェス的なバンド群とは趣を異にするシティポップ風の若手バンドが増えているとも言われ、それらはまとめてネオ・シティポップ、新しいシティポップなどと呼ばれたりしている。
Lucky Tapes、Yogee New Waves、cero などが該当するだろうか。

第1回目の冒頭に引用させていただいたツイートもこの点を指摘している。

 

 

ただYogee New Wavesはかなり歌詞での自己表現というところに重きを置いているバンドなので上記のくくり方にはあてはまらないかもしれない。

Lucky Tapesはブラックミュージックをベースにしながらメッセージ性よりも心地よさを追究しているという点ではかなり共通している。

(以下記事参考)

www.cinra.net

 

こうした渋谷系との構造的な類似点を持つ動きは
言ってしまえば、新しい渋谷系のようなものがここから生まれるのではないか、という期待感を私たちに抱かせるには十分なほどの規模になりつつあるように感じている。


※シティポップというくくりにこだわらなければ、他にもいわゆるロックフェス的なバンド群とは異なる音楽性を持つ若手が目立つようにもなってきている。(HAPPY、The fin.などの洋楽ライクなバンド、あるいはシャムキャッツ、森は生きている、ミツメなどのフォーキーなアプローチのバンドなど…)

これらをここで一緒くたに扱うには、さすがに手に負えないので今回は一旦置いておくが、
少なくともそうした「速くない」「00年代の「ロキノン系」を直接のルーツとしていない」若手の存在感というのは、大きくなっているという感覚がある。

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次回が一旦最終回です。

最後は、バンドの「戦略性」が取り沙汰されることが批判される傾向にある背景について考察していきたいと思います。