週末ひとりけんきゅうしつ

つれづれなるままにひぐらし音楽と社会をながめる人のひとりごと。(もはや週末関係ない)

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cero/Obscure Ride を“シティ”と“ポップ”に分解する [続・ニッポンの内と外] ― (0)小沢健二/Eclecticの「イビツさ」についての一考察

 ceroの3rdアルバム”Obscure Ride”が約1ヶ月ほど前にリリースされ、各所で絶賛を浴びているのは周知のとおり。

 

Obscure Ride 【初回限定盤】

Obscure Ride 【初回限定盤】

 

 

このリリースに絡んで当然、多くの言説が生まれているわけであるが、とりわけキーワードになってくるのが(その用法の賛否含め)「新しいシティ・ポップ」という言葉だと言ってよいだろう。

 

 今回は、それらの言説をもとに、あえてこの”Obscure Ride”を「シティ」と「ポップ」に分解して考えてみようと思う。

  この作品の、さらには一歩俯瞰して、この「新しいシティ・ポップ」というムーブメントの「同時代性」と「対抗文化性」―その意義を考察するのが今回の狙いである。

 

小沢健二/Eclecticの抱えていた「イビツさ」の正体

 各所で述べられている通りであるがcero/Obscure Ride は小沢健二/Eclecticに影響を受けた作品となっている。(この点については他が詳しいのでここではあえて説明しない)

 

 下記のcero/Obscure Rideの宇野維正氏のレビューだがここで語られる小沢健二/Eclecticとの関係について興味深い点があった。

thesignmagazine.com

2002年の小沢健二が、あの奇跡のように美しく、どうしようもないほど孤独で、少々イビツな作品に『Eclectic』と名付けたこと。当時、自分はそこにどこか失意や絶望を帯びたニュアンスを感じ取らずにはいられなかった。

 

 私はこの小沢健二/Eclecticにおける「孤独」や「イビツ」さ、「失意や絶望」という点についてそのゆえんを探してみることにした。

 そして1つ、思い当たったのが、この作品の特徴とも言える、女性コーラスの存在感だった。

 

 本作品はすべてアメリカでレコーディングされており、コーラスは現地のアメリカ人によるものである。それゆえに歌詞そのものは片言のように聴こえ、意味をもった日本語として浮かび上がって来ない、どちらかというと「楽器としての音声」といった印象を聴き手にもたらしている。日本語の歌詞ならば日本人がコーラスしてもよかったはずなのだが、なぜこうした効果を狙ったのだろうか。

 

 実はそれこそがこの作品の「失意や絶望」という側面を深く表現しているのではないだろうか。

 

 “Eclectic”は日本人が日本人として忠実にR&Bを具現化しようと試みた作品であると言ってよいだろう。

 前の記事で述べたように、ポピュラー音楽において輸入国である日本は「洋楽」に対して「追いつかなくてはならない」というテーゼを自ら長年掲げ続けてきたことによって、その歴史を発展させてきた国である。(下記参照)

当然、ブラックミュージックについてもある種の憧憬を抱いてきたことは間違いない。

 

seaweedme.hatenablog.com

 

 だが一方で、一般的に、どんなに忠実に再現できたとしても、どうしても残ってしまうわだかまりがある。

 宇野氏も先のcero/Obscure Rideのレビュー内で以下のように続ける。

一方、ceroは今作を『Obscure Ride』と名付けた。「折衷」と「曖昧」。いずれの言葉も、非黒人ミュージシャンがブラック・ミュージックの(イミテーションではなく)本質に近づけば近づくほど何度も不意に襲われるに違いない、ある種の「後ろめたさ」を表しているようにも思えるのだが(以下略)

 

「どんなに上手く演奏を再現しても、背後にある歴史や精神性はトレースできない」。

そう、この壁を、厳然として超えられないという一面も否定できないのだ。―それは小沢健二に限った話ではなく。

 

 つまり、翻って、小沢健二/Eclecticの中の、あの、違和感のある現地アメリカの人による片言の日本語のコーラスというのは、

実は、ポピュラー音楽における、我々の、黒人への憧憬のまなざしを反射させるがごとく、逆説的に表現したものなのではないだろうか。

 

 我々はポピュラーミュージックの分野において、黒人を、ひいては「洋楽」の担い手である欧米の人々を、憧憬とともにまなざす立場であるわけだが、

その事実を「違和感のあるアメリカ人の日本語のコーラス」、すなわち、欧米の人々が我々日本人をまなざし「返す」という視点を、作品の中に組み込むことによって投影させる、という企てが小沢健二/Eclecticという作品の内包する構造のひとつと言っていいだろう。

 

 J-POPという言葉が当然のように浸透し、日本のポップスにおいて「洋楽」に「追いつく」ことが長年のテーマであったことがすっかり忘れ去られた2002年当時、愚直に、日本人として、ブラックミュージックを体現しようとしたという点において、小沢健二/Eclecticは非常に希有な作品だということは、言うまでもない。

 

 だが反面、どんなに上手くやれても、日本人の自分には、歴史や精神性までは再現できないというジレンマ―どこまでいっても「ホンモノ」にはなりきれない、モノマネに過ぎないという自意識―

その物悲しさや虚無に、小沢健二は、自らの孤独を見、ほんのすこし皮肉めいて、日本とブラックミュージックの、「折衷」― “Eclectic”と名付けたのだろうか。

 

 

 日本のポピュラー音楽は、美しくだが物憂げな、この小沢健二/Eclecticという希有な作品が世に出て以降約13年間、その失意を抱えたまま、良くも悪くもいわゆる「ホンモノ」と向き合う積極的な姿勢の沈黙を見続けていた。

 そんな状況の中リリースされた、ceroの“Obscure Ride”という作品のもつ意義はどう捉えることができるだろうか。

 次回更新以降でいよいよこの本題に入っていきたいと思う。