cero/Obscure Rideを“シティ”と“ポップ”に分解する(2)“シティ”=わたし達の街の不確かさ、わたし達の見ている「今」
ありふれた日常と普遍の周りを回遊しながら、時折のぞかせる不穏さ。
それは、震災以降改めて気付かされた我々の街の不確かさ。
都市という存在そのもののフィクションや空虚、それゆえに内包する不気味さ、それを眺める自分がいま居るここが夢か現実か定かではない感覚(“My lost city”―M11「わたしのすがた」)。
前作“My lost city”のラストに登場するモチーフである「都市の虚構性」にフォーカスを当て、掘り下げた視点が今作“Obscure Ride”の通奏低音となっているようだ。そしてそれこそが彼らの見ている「都市」―“シティ“の今のすがたなのである。
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元祖シティ・ポップの「シティ」イメージ
いわゆる元祖シティ・ポップというものについては、「ミュージック・マガジン」2015年6月号において、((さらうんど))のCrystalが以下のように定義しているとし、彼のブログが引用されている。
「80年代のある種の日本のポップス。欧米のポップ・ミュージックを消化した洗練された音楽性を志向し、歌詞やビジュアルは、豊かな都市生活とそれを前提としたリゾートへの憧れをテーマとすることが多い」
(「ミュージック・マガジン」2015年6月号―p.36 )
MUSIC MAGAZINE (ミュージックマガジン) 2015年 06月号
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シティ・ポップの指す「シティ」。かつてのそれは、人々の憧れの対象としての、すなわち、一部虚構の空想をも伴った羨望の矛先としての、きらびやかなネオンの輝く「都市イメージ」ということになる。
“Obscure Ride”のもつ不穏さの正体
さて、今作“Obscure Ride”だが、よく歌詞を読み進めてみるとその中に紛れ込んでいる、一抹の不穏さや不気味さが我々の目を引く。
特に象徴的なのはM8“Roji”の歌詞構成だ。
特に“Roji”は高城が母と切り盛りしている店の名前であり、その意味で、ここで描かれるなんでもない風景は、彼自身の、自然体の日常を究極的に象徴し、切り取っていると言っていい。
だからこそ、最後のシーンに突如かかってくる不気味な電話によってその風景が冷たく一変する場面には、我々の日常がなんらかの非日常的なものに簡単にアクセスできてしまうような、ある種の不穏さを強烈に印象付ける。
それ以外にも本作に収録された楽曲の多くにはたびたび、一抹の不気味さを感じさせるモチーフが、なにげない日常を描く中に突如として登場してくる。
影のない人 (M3-Elephant Ghost, M6-ticktack, M11-Wayang Park Banquet)
幽霊・亡霊 (M3-Elephant Ghost, M10-夜去)
街を見下ろす誰か (M9-DRIFTIN')
誰かからの不気味な電話 (M8-Roji)
パラレルワールド (M7-Orphans, M8-Roji)
どこかへ行ってしまったみんな (M6-ticktack)
・・・
こうしたモチーフに漂うのは、言ってみれば――この世のものではないものの気配だ。
前作は「3.11と僕ら」という視点が色濃く投影された作品となっていたが、その日から4年経った今の我々のくらしを俯瞰する視点が時折現れるのが今作、という立ち位置だろう。この世のものではないものの存在感となって立ち現れているのはまさにそれである。つまり、その日常の“もろさ”を。
「不確かさ」こそが現在の「シティ」のすがた
彼らは前作リリース時のインタビューにおいて、自らが「シティ・ポップ」と語られることへの違和感を示しながらも、その自身による解釈として「シティ・ポップとは、パラレル・ワールドのことで、表裏一体である享楽と空虚の世界観を表現している」という旨の発言をしている。
高 享楽こそが都市っていうもののいちばんの根源というか。それこそ、シティ・ポップと言われてるものって享楽的な世界観だと思うんですよ。そして、自分の中で、"空虚"は、"享楽"と裏表で。(略)
荒 要するに、シティ・ポップってパラレル・ワールドっていうことですよね。そう考えると、ceroがシティ・ポップと言われるのも何となく分かる。
(中略)
高 結局、都市っていうのは残っていくものじゃなくて、最終的には負けるんですよね。一瞬、パッと華やかに存在して、消えていくものなんだと思う。だからこそ、享楽的になるし。何というか、そういう観点で"シティ・ポップ"をやれたら、自分たち特有の音楽になるんじゃないかなって。
※高=高城、荒=荒内
今作もまたこうした「シティ・ポップ」の解釈が踏襲されていると言ってよいだろう。
だが今作はどちらかと言えば、都市の享楽性よりも、我々が何気なく生活しているこの街・東京の、ふとした瞬間に垣間見えてしまう不確かさや虚構性をその作品の中に忍ばせることに軸足が置かれているようだ。
ブックレットのアートワークにも、都市の風景に影を落としたような写真が用いられていることからもその姿勢はうかがえる。
震災から4年経って、我々の街(東京)はまるで何事もなかったかのような日常をすっかり取り戻したようで、それは享楽と言っていいのかもしれないが、甘い蜜に浸かりながら生きている。そうした生活は、簡単に崩れ去りかねないのだ、ということを4年前に気付いたはずなのに、である。我々の日常はいつだって危うさや非日常と隣り合わせで、この享楽というすがたをしているのは虚構で、そして我々は空虚の中で息をしているのかもしれない――
それが彼らの描くパラレル・ワールドのシティ・ポップなのだ。
ブラックミュージックオリエンテッドなスムースな響きに耳を奪われがちな今作だが、歌詞を追っていくと、今自分の生きているこの街・この日常のほうが、本当は夢や虚構かもしれない、という感覚に襲われる。
それはまるで、こちらとあちらの境界、すなわち、平穏で平凡な甘い日常と緊張感と不穏さをはらんだ非日常の境界は、我々の思っているよりずっと曖昧な(=“Obscure")ものなのではないか、という投げかけのようでもある。
都市の享楽―都市に住む我々のごくありふれた日常―がわたし達を覆い以前となにも変わらないように生きていても、あの時気付いたはずであるその不確かさや虚構性であったり、危うい世界との境界は実に曖昧で簡単に乗り越えられてしまうことが、東京に住む彼らによって肌で感じながら描かれているという点において、この“Obscure Ride”はまさに現在に更新された究極にありのままの、「シティ」の音楽なのだ。
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今回の続き記事にした「cero/Obscure Rideを“シティ”と“ポップ”に分解する」の3回を通じて、ceroは「シティ・ポップ」と呼ばれるべきなのだ、ということをまとめとしておきたい。
もちろんそれは、80年代のシティ・ポップとは意味合いが異なる。
・「シティ」=現在の都市を生きる彼らが感じ取る、街の不確かさという意味での「虚構性」
・「ポップ」=メインストリーム化したロックとは違うものを志向するという意味での「対抗文化性」
こうした要素を同時に持ち合わせているからこそ、「新しい」という形容詞を冠するという前提において、cero/Obscure Rideは、まごうことなき「シティ・ポップ」なのだ。