週末ひとりけんきゅうしつ

つれづれなるままにひぐらし音楽と社会をながめる人のひとりごと。(もはや週末関係ない)

follow us in feedly

ROTH BART BARONは音楽の未来を“取り戻す”ー小さな巨人たちへの5つのまなざし(3)

 

3.ステージ:日常の延長の祝祭

彼らのライブを観たことがある人は気づくだろう、彼らのステージでは、原色の照明があまり使われないことに。

代わりに、彼らは白熱球のような光のオーナメントを持ち込んで、ステージを、時には客席までもをクリスマスの家々のように飾りつけている。

f:id:seaweedme:20170604135225j:plain画像引用元:

ROTH BART BARON on Twitter: "BEAR NIGHTにご来場頂いた皆さんありがとうございました。🐻🐻🐻
Merry Christmas & Happy new year
#bearnight #rothbartbaron https://t.co/RJn417AUIs"

 

ライブマーケットはこの2017年においてもまだ、いや、ますます、肥大化している。

豪華さと大きさがあたかもアーティストの価値や評価になってしまったかのような今この時代に、彼らはあえて派手さや過剰さを抑え、自らの手で創る可愛らしく素朴であたたかな空間をステージにしてしまうのだ。

 

 たぶん、そんな彼らが誰よりも知っているのは、祝祭の本当の意味についてだ。

 

このシリーズの1.で取り上げたように、メンバー/サポートメンバーたちは実際のライブでも、オーソドックスなギター・ベース・ドラムといった楽器以外に、三船が集めた珍しいものも含め、様々な楽器を楽曲ごとに縦横無尽に持ち替えて演奏する。その幅は広く、筆者の観た中では、フィドル、ミュージカル・ソー(ノコギリ)や和太鼓なんかまであった。

 

固定された1つの楽器をメンバーに割り当てるという今日一般的なポップミュージックのライブとは趣を異にするそうした無邪気な楽器との接し方からは、先に述べた音楽的探究という意味合いだけでなく、土着の祭りのような様相

ーー訓練された“特別な人”の演奏を観客が見守る、というかたちではなく、そこに参加する普通の民衆、その誰もが代わる代わる弾き歌い踊るような祝祭のあり方ーーを連想させられる。

 

とはいえ考えてみれば、日々感ずるところを弾き歌う、それがブルースやあるいはフォークの根本でもあったのではないだろうか??

であるならば、そうしたルーツを色濃く受けている彼らのライブは、祝祭でもあると同時に、誰しもの日常に向けてもまた、開かれているはずだ。だからこそ、彼らのステージの演出や装飾、照明は、どこをとってもいたって素朴で等身大、で良いのだ。

 

そういえば、ライブというのはハレの舞台だけれど、そもそも「ハレ」は、「ケ」と切り離せない表裏一体の産物でもある。ハレはケに裏打ちされて存在するのだ。日常が良いものになるよう祈りを込めて執り行われるものだからこそ、「祝祭」というものの本当の意味もまた、日常の延長線上に在るーー

 

彼らのライブを観ると、まるで逆立ちしたかのようにそんな本来的な概念にいつも立ち戻されて、ある意味とても新鮮な驚きに毎回感嘆させられたりする。

 

 

様々な楽器を組み合わせた肉体的な響きにみなぎる彼らのライブの高揚感は圧倒的だが、特にダイナミックなパートへ縺れ込む時には、彼らは観客を煽るような仕草を見せることもしばしば。

ただ彼らのそれが他のロックバンドと違うのは、場を盛り上げるために画一的な「ノリ」を無理に引き出そうという意図によるものではなく、ライブに静かに見入っている観客をすら、我を忘れて各々の思うままに自由に、その高揚感に身を委ねてもいいのだと導くためのものであるということ。*1

 

そしてそのクライマックスこそが、彼らのライブでいつも決まって最後にアンプラグドで演奏され、観客も巻き込んで、そこにいる全員で歌われる曲、「アルミニウム」なのだ。

 

印象的なシーンがある。昨年末、彼らの自主企画であるイベント“BEAR NIGHT”のラストの「アルミニウム」で、ドラムの中原がフロアに降り、観客の後ろで、ステージの三船と向かい合いながら、持ち出したフロアタムを叩くという場面があったのだが、

 

 その瞬間。

 

ステージとフロアのメンバーに挟まれた観客は、もはや「観客」ではなかった。

我々観客が、その空間を共に創る一員として彼らに迎えられたことに、その光景を見て気づかされた。そう、そこでは、演者/観客という二項対立は、取り払われてしまった。

 

クラシックのコンサートのように、ステージと観客とが明確に区別され、演者が一様に同じ方向を向き、演目を静かに見入る(魅入る)ことが観客のマナーである、という様式が60年代後半頃にポピュラーミュージック(ダンスミュージックは除く)に持ち込まれたという通説*2を仮に前提にするならば、

ROTH BART BARONのライブはその二項対立が生じる以前の、演者と観客の境界が曖昧だった祝祭空間に私たちを連れ戻す本能的なエネルギーに満ち溢れたものだとも言える。

 

彼らのライブにはそういった意味でのプリミティブな祝祭性もまた、宿っているように感じられてならない。

 

彼らの曲に「Campfire」という曲がある。

まさに、キャンプファイヤーの大きく燃えさかる炎を囲んで歌を歌い踊りまわる時に奏でられる音楽のように、彼らのライブは名もなき民衆の高揚の中心で歌われ奏でられる、紛れもないフォークミュージックだ。

 


ROTH BART BARON -"Campfire"

*1:とはいうものの、やはり彼らのライブに来るような日本のインディーロックファンは周りの目を気にして静かに見入るタイプの観客が多いためか、煽られてもなかなか堅く大人しいままのことも多く、彼ら自身やりづらそうな表情を浮かべる瞬間を見かけるときもある。その歯がゆさこそが、今回筆者がこの文を書く動機にもなったのだが・・・各々が高揚した感情を思い切って自由にリアクションして構わないのではないだろうか?その光景こそが、彼らROTH BART BARONが見たい光景なのではないだろうか?などと筆者は勝手に思っている。

*2:ビートルズがライブ活動をやめてレコーディング活動に専念するようになって以降、ロックミュージックは「論ずる対象」となりそのライブは、長らく、「鑑賞する」対象であり続けた、ともされる(南田勝也『オルタナティブロックの社会学』(花伝社)pp.132-133 などに詳しい)。90年代以降その観念は氷解していくわけだけれど、やはり今でも、そうした「録音物の再現/上演」と「それを観察する観客」という二項対立の形式に基づく発想は未だに「ライブ」という概念に根強く存在しているように思われてならない。