ROTH BART BARONは音楽の未来を“取り戻す”ー小さな巨人たちへの5つのまなざし(5)-1
5.作品の「かたち」:「音楽」のかたちの未来(前編)
ライブにライブグッズはつきものだ。
ライブが多くの人のレジャーとしてこれまで以上に市民権を得ている今、売る側にとってはグッズはまさに打ち出の小槌と言っても良いのかもしれない。
けれど、果たしてスーベニア以上の価値のあるグッズがどれだけあるだろうか?
一瞬の非日常に舞い上がっているところにつけ込んだ旅先のちゃちなお土産品、としてではなく、グッズですらも自身の表現の媒体になり得るはずーー
ROTH BART BARONの作り出すものにはそんな挑戦心を感じることが多い。
たとえば、グッズ、あるいはそれに留まらず、彼らがアウトプットするもののいずれにも同じシンボルをあしらうことにもその意図が見て取れる。
クリスタルパレスにヘラジカの角を乗せたバンドのロゴマーク。あるいは、三船のお気に入りの同じクマのイラスト。それらがあらゆるグッズやそのグッズを入れる袋、ポスターなど随所に、ブランドのロゴマークのように刻印されている。
ただそれだけのことではあるけれど、それでも、そこに彼らのアイデンティティや透徹した哲学を感じさせるのには十分だ。それだけで、これまで述べてきたような、彼らの一貫した世界観に、彼らの創り出すものひとつひとつがすべて帰結していくように感じられる。
▲Tシャツやパーカーのタグ(写真はパーカー)
▲グッズのロゴバッジ(グッズを買うとロゴ入りの袋に入れてくれる)
音源やパッケージだけが、もはや作品ではない。 この1、2年の間、彼らは本当にそのことに意識的だった。なによりも「売り物」になる新曲を、CDでもなければ配信でもないかたちで発表し始めたのだ。
KORG SESSIONでは、Tシャツに、金沢でのイベントでは、マスコットのオーナメントに、それぞれ楽曲のデジタル音源のDLコードを付けて販売したのだ。
そして、その極めつけは、「Swimming Pool」という新曲を手作りのオルゴールとして発売したことだろう。
まだ誰も聴いたことのない新曲を、CDでもレコードでも、ましてや配信でもない媒体で、しかも演奏を録音した音源ではなく、オルゴールの音色で発表するというのには、正直ぶったまげてしまった。
もちろん、このオルゴールにもやはり音源のDLコードは付いている。しかし、すでにある音源やライブの音源、あるいは、新曲であっても他の手段や媒体(CDやサブスク、iTunes等での配信販売)で手に入れることのできるものをDLコードとしてグッズと併せ売りするやり口はいくらでもあるが、まだ誰も聴いたことのない新曲の発表の媒体として用いるというのはあまり聞いたことがない。
おまたせしました。在庫を切らしていたオルゴールシングルSwimming pool、本日からSTOREで購入可能です。https://t.co/BqUcwkIjsa pic.twitter.com/eRPzDcsTeV
— ROTH BART BARON (@ROTHBARTBARON) 2016年7月8日
さらに、この時、あくまでこのオルゴールを指して「オルゴールシングル」という形態の「新曲」である(つまりDLコードはオマケ)と言い切ったのは、本当に潔かった。
たとえば、オルゴールとDLコードという組み合わせの全く同じものを販売するのであれば、「オルゴールというアーティストグッズに新曲のDLコードが付いています」という、告知の仕方もできたはず。
しかし、そうしていたらこの場合、全然、意味がなかったはずだ。
スーベニアとして安易に売りさばこうというものではなく、あくまで「新曲の媒体としてのオルゴール」だからこそ、楽曲そのものをして、「モノ」として長く付き合える対象にせしめることができるのだから。
※なおこの「Swimming Pool」は上記のオルゴールを初販売した限定イベント《Swimming Pool》(4.24 2016@VACANT)のティーザーとして視聴可能、またその際のライヴ映像として、公開されています。
それだけではない。
このオルゴールからは、「音楽を発表する」という行為とは、規格化されたフォーマットを使った“録音物”として発表するものだ、という概念をもすっかり相対化してしまえるという、劇的なメッセージを読み取ることもできてしまう。
レコードという録音パッケージのフォーマットが歴史に登場した100年ほど前よりも以前は、楽曲は楽譜のかたちで複製されていたわけだが、
彼らが新曲「Swimming Pool」を発表する媒体に、録音パッケージではなく、オルゴールという、レバーをくるくると回しながら専用の譜面を送って奏でるこの原始的な「楽器」を選んだ、ということは、その事実を思い起こさせる。
つまりこのオルゴールは、現代を生きている我々が、楽曲とは、CDであれ配信であれ、ニアリーイコール「録音された媒体」だとつい当たり前のように認識してしまいがちな、発想力の狭さを突きつけると同時に、
彼らがそうした固定観念に常に意識的であり、本当に自由で柔軟な想像力でもってその壁を壊そうとしていることも教えてくれているのだ。
ROTH BART BARONは、音楽の聴かれ方が全くもって激変していこうというこの時代に、楽曲や音源のかたちを一から捉え直そうと模索して、「作品」の定義をも揺るがそうとしている。