アナログレコード人気再興の再考
前回はサブスクについて書きましたが、今回は対極になるアナログレコード人気の「なぜ?」を深掘りしてみました。(サブスクとアナログは対極でありつつ双方を補完するコインの裏表だとは思うのですが、それは今回はさておき。)
■アナログレコードとCDの価値のシーソーゲーム
いきなり結論から入るならば、アナログ人気は要はスノビズムのひとつの形だ、と言ってしまえば簡単でしょうし、実際そうなのでしょう。けれどそれでは、、、あまり本質的ではないですよね。
こういった意見もありました。
これもこれでひとつの切り口としてよいと思うのですが、ではなぜ今「カジュアルリッチ」が求められているのか、がイマイチ不明瞭です。
「なぜ “今”なのか?」
まずレコードとCDの興亡を紐解いてみます。
レコードの生産数は1980年前後をピークに減少、1982年にCDが初めて発売されて以降若干のタイムラグはあれどそこから右肩下がりです。一方のCDはというと、80年代後半から90年代にかけて生産数が飛躍的に伸びて、1998年にピークを迎える形になるわけです。(以降は、右肩下がりが止まりません。。。)
【参考】日本レコード協会 「日本のレコード産業」2000年版
http://www.riaj.or.jp/f/pdf/issue/industry/Ryb00j01.pdf www.riaj.or.jp
この間をよく見てみると、実は一時期だけ、アナログレコードの生産数が伸びている時期があります。95年から99年にかけてですね。これはDJブームの時期と言ってよいでしょう。私は当時の若者ではないので肌感覚ではわかりませんが、「バンドブームが終わって楽器を持て余した若者たちがそれらを売っぱらってこぞってDJセットを買った」という逸話を聞いたことがあります・・・。
では、今のアナログ人気と、90年代半ば~後半にかけてのアナログブーム(本ブログでは便宜的に第1次アナログブームと呼ぶことにします)はどこが同じで、どこが違うのでしょうか?
共通しているのは、CDの価値とのシーソーゲームによって価値が付加されたという点ですね。
第1次アナログブームの際には、CDが爆発的に生産されるようになったことでCDがごく当たり前のものになった。つまり需要と供給が増えたことによる、それ以前と比べた時の相対的な価値の低下、普遍化が起こったと言えるでしょう。
現在はというと、CDの生産数はガタ落ちなわけですが、それは純粋に、需要の縮小という名の価値の低下です。
このように、CDというものの価値と意味が見直されるタイミングで、アナログが注目されるわけですね。CDとの二項対立の相手として、たびたび引っ張り出されてしまうのがアナログの宿命なのかもしれません・・・
さて、しかし、第1次アナログブームと現在のアナログブームは、やはり本質的には違うものです。
第1次アナログブームはDJブームと関連のある動きなのでアナログレコードは実際に使用されます。使用価値があるのです。
対して、現在のアナログ人気では、もちろん実際に皆さんレコードをかけて音の豊かさを楽しみつつ、同時に「飾っておきたいから」という欲求も満たしているという話は一般によく聞きますよね。
ツイッターでは、アナログレコードを支持する声が書き込まれていた。「再生音域の豊かさに脱帽」「最近アナログレコードばかり聴いている。たまにCDを聴くと音がまとまり過ぎていて物足りない」のほか、「アナログレコード聴いたら曲順通り覚える」といったつぶやきもあった。
(上記記事より抜粋)
アナログを聴く若者の意見を見て気づかされるのが、現代においてそうしたレコードを聴くという行為が、そのように昨今アナログに手を伸ばすようになった人々にとって、ある意味、音楽を聴く行為における「正統なあり方」と位置付けられているのではないかということです。
同記事の中の下記ような、レコードを聴くことに実用性ではなく儀式性を見出す意見にもそうした視点が見受けられそうです。
大妻女子大の小泉恭子教授(音楽社会学)は「音楽の起源は宗教的儀式にある。ネットで簡単に聴ける時代だからこそ、ひと手間かけるレコードの儀式性が重視される」と話す。
(上記記事より抜粋)
つまり、アナログレコードを所有し聴くという行為そのものに記号的な価値があるということです。
■アナログレコードに付加された現代のオーセンティシティ
まわりくどい言い方をしました。
はい、要は、音楽好きを自認する(特に)若者が今日びアナログに何を求めてるんだという話です。若者たちはHMV record shopに通い、レコードストアデイに並び、人気のアーティストのアナログを買っているわけですが、それはなぜか。
「音楽好き」というところがポイントです。音楽が好きだからレコードで聴こうと思うわけですから、レコードで聴くことにある種の音楽としてのオーセンティシティ(正統性)―音楽の聴取方法としてあるべき姿―を見ているということが推測されます。そうした価値観は、前述のようにCDを引き合いにすることで新たにアナログレコードに付与された「意味」です。
「聴くのに手間がかかることが新鮮なんです」
「ぬくもりや手作り感が感じられる」
「アナログはCDとは音が違うんだよね、CDは味気ないよ」
こうした声、私もすごくわかります。でも、よく考えてください、
―何枚も買っているうちに新鮮さは薄れていきませんか?
―カッティングは職人技かもしれませんが、生産は工場でするものですよ?
―丸みのある素敵な音ですけど、アナログをずっと聴いてきた人にとっては当時、CDの鮮明な音を歓迎したかもしれないですよ?
1980年よりも前はアナログが普通だったのです。
当時は、アナログは希少なものではなく、むしろ大量生産のための手段で、庶民が音楽を聴くための当たり前の媒体でした。
そう、つまり人々の間で、こうした「古めかしさ」が、文化としての「正しさ」や「高尚さ」にすり替えられているということなのです。
こうしたかつて大衆的なものだったものの、古さの高尚さへのすり替えというのは、よくある現象でもあります。音楽で言うなら、ジャズはその代表ですね。また、着物や歌舞伎(歌舞伎の高尚化には政治的な意図があったそうなので自然な現象ではないですが)などもそうかもしれません。
庶民のものだったものが、伝統や形式という装飾が強調され高尚なものとして社会的な意味が変容したのです。
今やアナログレコードは希少というイメージが強く、本来の大量生産・大量頒布の媒体という役割は担っていないため、現在新たに発売されるアナログは、乱暴に言えば、それが当たり前だった時代の、それらの「レプリカ」にすぎないとも言えます。
けれども、現代新たに製造されるアナログレコードは、そうした当時の本来のあり方にはなかった意味、すなわち、音楽としてより「本物」らしいというイメージが、人々によって新たに付与されている、という倒錯した関係が展開されているのは、とても興味深いです。
■ビジュアルイメージの時代とアナログレコード
ここで改めて最初の問いに戻りましょう― ではなぜ、“今”なのか?
「YouTubeなどを通じて音楽を所有することが少なくなったからこそ、モノとしての音楽が見直されている」という話や「CD音源との音質の違い」については、もちろんそれもあるだろう、とは思いつつ、それとは別の角度から考えてみます。
注目したいのは「アナログレコードを飾る」という行為の特殊性です。もう一度先ほどの記事を引用してみましょう。
「部屋に飾るの今から楽しみ」「ジャケだけで買っちゃいそうになるのもある」とレコードジャケットの魅力を指摘する声もあった。
(上記記事より抜粋)
これは第1次アナログブームにはあまり際立ってはいないはずです。(もちろんあるにはあったと思いますが)
気に入ったものを目に見える状態にするということ、これって実はここ数年、より強い傾向があるように感じています。
たとえば「フォトジェニック」という言葉があります。意味は「写真映えがする」ということ。前からあった言葉ですが、最近は、以前より注目されています。
スマホの普及、スマホのカメラの性能の飛躍的な向上は、美しい写真を撮ることを本当に簡単にしました。
綺麗な夕焼けを見れば、素敵なカフェに行けば、珍しい料理が出てくれば、すかさずスマホで写真を撮る。そして人はその素敵に撮れた写真を、時にはSNSに投稿するでしょう。
インターネットが普及するようになって、人は視覚から得る情報がそれまで以上に圧倒的に増えたそうです。15年前と5年前を比べると人が視覚から得る情報は15倍になったらしいと聞きました。このブログを読むことだってそう、文字であれなんであれ、インターネットで得る情報の多くは、視覚情報なのです。
だから、ネット上かリアルかにかかわらず、視覚から得られる情報は現代ではますます重要視されるようになっていると言えるでしょう。
Instagramが流行っているのもそうした背景があるように思われます。よりわかりやすく視覚に特化し訴えるようなメディアが支持される時代なのでしょう。
(Instagram映えすることを「フォトジェニック」を文字って「インスタジェニック」と言うくらいです。)
撮れた写真を、人に見せるか、SNSに投稿するか、自分のスマホに保存しておくだけにするかは、人それぞれ、場合によりけり、だけれども、
いずれにせよ写真というビジュアルイメージを、スマホに詰め込んで肌身離さず持ち歩く、という行為に人は少なからず満足感を得る時代なのです。
さらに言えば、写真に撮らなくても、素敵なビジュアルイメージを自分の目がとらえる、というごく単純な行為の価値すら、昨今は上がっているとも言えるかもしれません。「ワタシ」という存在がフィルターそのものになっている。
だから、大きくて見映えのするレコードのジャケットというのは、今こそ、飾り甲斐がある。飾るだけでも満足だけれど、人によっては写真に撮ってSNSに投稿するし、その価値も大いにある。
単純にモノとしての「デカさ」が強調され、精緻に表現されたデザインでも視覚的にわかりやすいアナログレコードは、音楽好きの現代の若者にとってみれば、まさにうってつけのアイテムなのかもしれません。
とかなんとか、シニカルに書きましたけど、私もそんな若者たちの一人なのでした。ちゃんちゃん。。
ロットバルトバロンの氷河期のLPを買ってみたわけですが、ジャケもさることながら、レコードの盤面が…薄氷のような透明!とっても綺麗
ジャケットを飾りたいのだけど、そうすると綺麗な盤面が見えないジレンマ pic.twitter.com/4scs2L4woL
— seaweedchan (@hiyocombuu) August 10, 2015
ジャケットじゃないですけど。笑
ROTH BART BARONとっても素敵ですよね。新譜はCDで買ってしまいましたが・・・。
■補足:カジュアルリッチもまた現代病
※ここから抽象的な話を始めちゃうので、余力のある方はよろしければ・・・。
そういえば触れていなかったので。冒頭のブログについて。揚げ足取りではないんですが一応・・・
アナログレコード人気も若者のカジュアルリッチ指向の一種と見るのはもちろん賛成です。その通りだと思います。
けれど、そんな「大量生産品ではない、手間のかかったモノを持ちたい、人とは違う経験をしたい」というカジュアルリッチな考え方が人々の間に表れるのもまた、大量消費社会の一側面なんじゃないでしょうか。
私が大学時代にかじって影響を受けた社会学者ボードリヤールの主張を非常に大雑把に端折って拝借すると、
現代の消費社会の中では、自分のアイデンティティは「他人がどう思うか」によって形作られるので、どんなモノを自分が消費するかによって確定させる必要があるとされます。その際、広告やマスメディアが提供するモノやコトのイメージが、ひとつの価値基準として機能するともされます。
さて、現在ではマスメディアの力が減退し、インターネットやソーシャルメディアの力がより増していますね。つまり、マスメディアが提供するような画一的な価値観の相対化が進んでいるように私には思われます。
自分も含めて、相対的な個がバラバラに存在するとなると、自分自身による自己の定義はより強く求められるようになるでしょう。
そんな中、自己の再定義に効果的なのは、大量に生産されマスメディアによって媒介されるようなモノゴトではなく、自分しか持っていないモノや、あるいは特別な体験(コト)。
それらで身を固めることが求められるのは、一歩進んだ現在のような消費社会においては、必然なのではないでしょうか。
ハンドメイド、手間暇かかったもの、希少なもの、一度きりの体験、それら大量生産物を拒否するためのカジュアルリッチなモノゴトは、とはいえ実はそれこそが、ハイパー大量消費社会の産み落とした産物なのかもしれません。