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週末ひとりけんきゅうしつ

つれづれなるままにひぐらし音楽と社会をながめる人のひとりごと。

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フジロックは単なるフェスではなくフジロックという”仕組み”だった、という話

フェス フジロック

遅ればせながら、フジロックに数年ぶりに行ってまいりました、というお話です。

 

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▲ブレブレなこの一枚しかなかった

 

これは、今年は比較的観たいアーティストが多いから、という至極単純な動機によるもの。もちろん特段観たいアーティストがいなければ行かないということが当然理性的だとすら思っていた私。

 

さて、そんな私とは対照的に、周知の通り、フジロックにはこのイベントそのものへの熱狂的なファンがついている。

国内で年間通じて至る所で大小様々なフェスが誰がどう見ても飽和している中で、フジロックというのは日本におけるフェスの起源であり、しかしながら、参加者の陶酔ぶりにおいては、最も異様なフェスでもあるとも言えると思う。

 

たとえばこんな常連客。 

business.nikkeibp.co.jp

 

「盆暮れ正月フジロック」。
そう平然と言い放つ常連客、自称「フジロッカー」達のフジロックへの熱くみなぎるパワー、いや、陶酔ぶりたるや、まさにユートピアの甘美さに恍惚するかのごとく。

しかし正直言って、その熱量はいささか盲目的すぎるのではと多少辟易していた。

 

 

いや、実際のところは、頭でこそ理解していた。だが納得できていなかった、

と言うほうが正しい。

 

 

というのも、以前参加した際には、ひどい豪雨と寒さに見まわれ、また椅子のひとつも持っていないために座ることもできず、それはもう惨憺たる経験をしたことも関係している。もちろん常連の客からすれば「当然だ、ざまあみろ」と言われるのも無理ないほど、なめきった装備だったことは認めよう。しかしやはり不満は残った。

 

そもそもとにかく混む。入場に2時間、トイレに30分。ステージ間を移動するのにいたっては朝の新橋駅といい勝負といったところ。それまでのフェス経験の浅さもあってか、そうした状況を、しかし運営側や参加者が甘んじて受け入れているように見えることに失望さえした。そんな私がフジロックに熱狂するはずは毛頭ないのは明らかだった。

 

 

とは言え、今回は例を見ないほど天候に恵まれたこともあり、今まで見えてなかったものが、見えてきた気がする。それは言うなれば、フジロックフジロックたらしめている構造と言ってもいい。

 

 

ここで挙げることはおそらくさほど目新しい視点ではないはずだ。

すでに長らく語り尽くされてきたこととは思うが、しかし今回自分の中でやっと肚落ちしたという、まあ個人的な備忘録として残しておこうと思う。

 

 

まず、前提として、自然に囲まれた環境であるというところは大きい。もちろん、大方のフェスもそうだと思うが、比較的都内からもちょっとした気持ちでも行ける距離でありながら大自然を享受できる、というところは、単に「フェス」ということに留まらず、ひとつのレジャーとして支持されるにあたり十分な前提条件であると言える。

 

また環境的な側面を挙げるならば、食べ物、装飾やクオリティも申し分ない。

 

装飾等についてはあまりこだわりもないようなフェスもある中、フジロックはとことん「大人の桃源郷」イメージを様々な演出のかたちで表現する。一見かけ離れたトーンに見えるエリアも、よく考えれば「大人の桃源郷」というテーマ性が背後に貫かれていることがわかる。

 FIELD OF HEAVENのように取り囲む自然をさらに十二分に感じさせるウッディなトーンで統一されたエリアや、かたやTHE PALACE OF WONDER付近のようにサイケデリックでどこかレトロなエリアなど、まさしくそうだ。

そしてそれぞれ区画が分かれているため、ごちゃごちゃとした印象がないところに洗練が感じられる。これはどことなくディズニーランドを彷彿とさせる手法かもしれない。

 

 

食べ物のクオリティについては、他も大きなフェスであれば同程度は担保されているはずだが、フジロックの食べ物にはどうも、やすやすとは欺かれない大人の舌も満足させる本格感がある。

美味しくもなければどれも同じような地元のお祭りの模擬店の食べ物など、私自身は子どもだましのように感じてしまって食べる気も起こらない人間だが、

フジロックの食べ物は「ちゃんとしたお店がちゃんと作っている」感じがあって、実際に食べてもハズレのない満足感が得られる。

 

 

 

そう、こうして見ると、フジロックは実は、あくせくと働き、本人の意識のあるなしに関わらず、どこか疲れた、しかし精神の成熟した「大人たち」を充足させることにスコープを当てた「大人たちのためのレジャー」として、周到にデザインされていると気づかされる。

 

 

・・・まあ、冒頭に挙げた記事の筆者のような

ただ最高にうまい酒を飲みにいってるんだと思う。酒のアテが極上の生演奏で、そして森の緑。

なんて言い草はさすがにちょっとキザすぎると思うけれど。。アサヒビールのオウンドメディアだもんだからお酒について語るのは仕方ないにしてもね)

 

 

さて、一方で、フジロックというフェスは、「ハード」「ソフト」の両面においてハードルが高いフェスだとも感じさせられる。

ハードというのは、物理的、身体的な側面を指している。

一方ソフトというのは、コンテンツ、そして心理的な側面のことを指す。

 

 

ハード面に関しては、その環境のタフさは言うまでもない。

その環境を避けたい人はそもそもフジロックを夏フェス・レジャーの選択肢から自ずと外しているだろう。

 

しかし過酷環境ゆえ、その攻略性がかえっておもしろさを感じさせる要素にもなり得そうだ。

必ずと言っていいほど雨が降り、寒くなるという自然環境下ゆえに、不自由なく過ごすための工夫や知恵が参加者には求められる。

また会場が混雑することは、どのタイミングで、どのようなルートで会場内を移動しお目当てのステージを観、食事をとり、そしてトイレに並ぶかという戦略を練る際のスパイスにもなろう。もちろん、それを見越して無理せず過ごそう、という戦略もありだ。

そうした自由な戦略性を楽しめることもまた、フジロッカーの条件でもあったりするのだろう。

 

 

こうしたハード的なハードルの高さについては、台風直撃のあの散々な初年度の後に雑誌メディアを中心に意図的な啓蒙がなされてきたわけであるが、今ではすっかり、個人のブログあるいはSNSで互いに共有し合うエコシステムが出来上がっている。

 

しかしそうした常連客による語りは一方で (これは、極めて個人的な印象論でろうことは自覚しているので慎重に言葉を選ぶが) 非参加者にとってはある種の心理的な壁を感じさせるものにもなり得るのではないだろうか。

 

ハードな環境を何度も乗り切ってきているからこそ、「自称フジロッカー」の常連客の語りの背後には、程度の差こそあれ、自尊心と優越感が見え隠れしてしてしまう印象を受けることがあるのだが、どうだろうか。

 

そうしたフジロッカーたちのハード的なハードルに関する語りはもちろん羨望を喚起するとともにに、フジロック初心者にはおおいに参考になるが、

他方でどことなく漂うその自尊心の匂いに、多少なりと私のようなフジロック初心者には「うかつに近寄り難い」「生半可な気持ちで参加してはならない」という印象を与え、心理的な壁を築く場合があるかもしれない・・・少なくとも自意識過剰な私の場合は、だけれども。

 

 

ソフトについて忘れてはいけないのが、出演アーティストの独自性だ。

若者向けの邦楽ロックバンドが一堂に会するROCK IN JAPAN FES.

欧米で今まさにホットなポップミュージックが比較的ジャンルレスにブッキングされたSUMMER SONIC

など、これら他の大規模フェスと比べても、ロックを中心に日本では知名度の低いインディーアーティストやワールドミュージックのアーティストまでブッキングされているのがフジロックの特徴。

これはそれぞれの主催者の特色に影響されているところは大きいが、特にフジロックは硬派で玄人ウケする、悪く言えばさほど一般ウケの見込めないアーティストも多く、

普段からこうした「非王道」のポップミュージックや難解な音楽に親しんでいなければあまり魅力的に映らないようなラインナップであることから、時に閉鎖的と揶揄される。

 

しかしながら思うに、その閉鎖性こそがフジロックを「守っている」、最大の武器ではないだろうか。

たとえば、ROCK IN JAPAN FES.SUMMER SONICは知名度のあるアーティストが多く、間口が広いからこそ、会場では良くも悪くもイベントやお祭りが好物の、ただフェスという開放的な場ではしゃぐことを目的としているように思われる人も目に付いてしまう。

対してフジロックはそういったタイプの参加者が、(いるにはいるが)比較的少ないように思える。これは今回参加して気付いた最も印象的だった点、と言ってもいい。(いや、正確に言えば「何も目につかなかった」わけだが)

 

 

もちろん、「ただ騒ぎたいだけの人は音楽の造詣が浅い」と貶めたいわけではない。

が、やはりアーティストにはそれぞれ客層というものがある。

今年に至っては20周年というのに(ヘッドライナーの知名度でバランスを取りつつも)ここまで国内での知名度に頼らない徹底した独自路線のラインナップには、集めたい客層を意識した意図的なものを感じさせられるばかりだ。

 

 

 

ここで挙げてきたようなフジロックのハード的な、ソフト的なハードルは確かに閉鎖性に密接に寄与している。しかし、ここまでの話の流れからお分かりの通り、そのことが参加者の同質性を担保しているように思えるのだ。

  

こうした自己完結的な再生産の輪の中に守られているという事実がフジロックの本質、

つまりフジロックは、自ら閉鎖性を創り出しその閉鎖性に守られているがゆえに、正真正銘の「大人たちのユートピア」として成立しているということ。

そしてその"仕組み"こそがフジロックを単なるフェスとは一線を画した存在たらしめている。

 

  

 

実際に、フジロックの動員数はROCK IN JAPAN FES.SUMMER SONICと比べると少ない。

しかし、これ以上規模が大きくなることや、ポピュラリティーを付加して間口を広げることは求められてないように思えてしまう。

 

というより、そもそも無理だ。

 

苗場に会場を移して以降、地元との関係がこのフェスを支える重要な要素のひとつだ。

今回参加してみて、宿や民間駐車場を運営する地元の人々が、このフェスに想像以上に適応しているのが印象的だった。もちろん、地元にとってはフジロックが一大商機であることは疑いはないわけだが、ただ便乗しているというよりもフジロックやその客の利便性のことを理解していた対応をしてくれている感じがあった。

たとえば今回私が使った宿のように、深夜に帰ってくる客のためにチェックインもせず出入り口は24時間開けておくなど普通は考えられない。それは、余程客を信頼している証拠であり、つまり、フジロッカーのマナーの良さが築き上げてきたものだ。

 

だから、間口を広げ、新しい客層を取り入れた場合、その関係がどう変化するかは残念ながら未知数だ。

 

規模を単純に大きくすることも、会場内のギリギリの人口密度の現状を考えると難しいだろう。

 

また、場所を変えるということもほぼあり得ない。参加者が苗場を愛しているというだけでなく、地元とのこうした蜜月関係は長年築いてきたもので、また一から別の場所で同じように築くというのは、誰にとっても明白に不幸だからだ。

 

今のフジロックは奇跡的なバランス状態なのかもしれない。

 

 

繰り返しになるが、フジロッカーにとっては自分たちがフジロックを守っているというアイデンティティを、フジロックに参加することで自らの内面で強化し続けていると言えると思う。

それは言うなれば、今年のフジロックは来年のフジロックを再生産するために存在している、ということでもある。

 

 

 余談だが、私のようなひねくれ者は「互いに助け合い、自分のことは自分で」というこのイベントのスローガンには、実のところずっと、多少の奇妙さを感じていた。

 

「互いに助け合い、自分のことは自分で」とは、裏を返せば「自分」という監視者を各自自身の内面に自ずから育ませ、それに自分自身を従属させることを強要する、という意味でもあるわけで、

それはまさにフーコーが『監獄の誕生』で指摘した、かの"パノプティコン"的な「規律訓練型権力」のあり方そのものであり*1、そういった意味では権力と対峙する「ロック的」な精神と対立するものとしても捉えられるからだ。

にもかかわらず、むしろそのスローガンは「"DIY"の精神」という、いかにも「ロック的」に聞こえる解釈を与えられることによってその押し付けがましさの不可視化に成功している。なんとも奇妙な構図だ。

 

しかし、ここまで考えてきたことを鑑みるとそのような疑念ははなから意味をなさないようにも思えてくる。

なぜなら、ここまで書いてきたように、フジロックはそもそも、フジロックを愛している人々が自ら進んでフジロックを守りたがるような構造に出来上がっているわけで、むしろそんな彼らは自ら進んでルールに飼い慣らされることを意に介さないのだから。

 

 

・・・さて、こんなことをだらだらと考えていたらすでにフジロックから3週間近くが経ってしまったわけだけれど、

なんだかんだ言って私をこの記事を書くに至らしめたのは、たった1日参加しただけの自身の名残惜しさだったりするわけで、つまりやっぱり私もあーだこーだ言いつつこのユートピアに魅了されてしまったのだと思う。

 

大人たちのユートピアが楽しめるようになったということは、私もだいぶ大人になれたんだということに、しておこう。

*1:こちらの説明がわかりやすかったので引用しました。

自由と管理―パノプティコンと現代社会 - on the ground

フーコーが示したこうした権力の形は、学校、工場、軍隊、病院などあらゆる空間で現れる近代的な権力の在り方だとされ、しばしば「規律訓練型権力」と呼ばれている。その特徴は、支配の対象である各個人に特定の規範を内面化させ、自ら規範に従うよう仕向ける点にある。