週末ひとりけんきゅうしつ

つれづれなるままにひぐらし音楽と社会をながめる人のひとりごと。(もはや週末関係ない)

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cero/Obscure Rideを“シティ”と“ポップ”に分解する―(1)“ポップ”=対抗文化性

初めに…このエントリーの内容はもうとっくに考えてはいたのですが、私がぐずぐず文字に起こしかねている間に、ほぼ同じ論旨の記事を金子厚武さんが書かれました!笑


良く考えれば私がこの記事を練るのにおおいにヒントになった記事の1つが金子厚武さんによるものなので、そういう意味では至極当たり前なのですが。

・・・ということで大変二番煎じ感がハンパないのですが、恥をしのんで書きたいと思います。。
著名な(私も好きな)評論家さんと意見を同じくしているということは、逆に安心感もあるものですね。

www.cinra.net

そんなわけで上記の記事と似たような結論には落ち着きますが、
ただ一応、これまでポピュラー音楽における「日本の内と外」という観点を論じてきたので、その切り口から、小沢健二/Eclecticに影響を受けながらもなぜ“Obscure”という言葉を選んだのか、そしてバンドブームと渋谷系の関係性、などといった点について、

「J-POP」というものを軸にしながら、上記の記事よりもう少し丁寧に掘り下げたいと思います。

 

今回は長いです。。お付き合いください・・・

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■“Obscure”の意味

さて、本作がブラックミュージックを積極的に取り入れたものであることは各所にて言及されている通りであり、あえて今更言うまでもない。

だが一方で、その要素のすべてを取り込んでいる訳ではないこともまた事実であり、その点については下記記事で言及されている。

 

realsound.jp

 

ブラックミュージックといえばブラザー&シスターであり、性でありっていう、そこはひとまず置いておいて、とりあえず「構造を取り出す」ということに主眼があって。あくまでもやっている人間のパーソナルは変わらないわけだから、歌の内容に関しては地続きであっていいんじゃないかなって。荒内発言より抜粋

 

精神性や宗教・思想、文化的な違いについてはあえて足をつっこまず、楽曲の構造のみ取り出すという換骨奪胎―それはつまり、そもそも自らは「ホンモノ」ではない、「ホンモノ」にはなれないという認識のもとに立っているからこそである。
前記事で言及した、小沢健二の“Eclectic”との違いはまさにこの点である。

 

歌われる内容までもブラックミュージックに限りなく近づけていくことを試みた小沢健二の“Eclectic”に対し、本作は「日本人である自分たちはやはり決して『ホンモノ』ではない」という自覚をむしろ積極的に捉えている。

そして、ガチガチに「ホンモノ」に縛られないからこそ生まれるホワイトポケットの存在が、ポップスの解釈の幅を広げ再構築することに大きく寄与していると言えるだろう。

thesignmagazine.com

 

R&Bやヒップホップのマナーの消化が間に合わなかったとか、スキルが追いついていないということでは断じてない。意識的に間に合わせない、追いつかせないことから生まれる自在な解釈と創作性に、彼らはロマンティシズムを感じているのではないだろうか。(岡村詩野レビューより抜粋)

 

そしてそれは、日本においてブラックミュージックを体現しようとし、だが結果的には(図ってか図らずか)「どこまでいっても『ホンモノ』にはなりきれない、モノマネに過ぎない」という自意識をある種の孤独感とともに提示することとなった小沢健二の“Eclectic”の存在を前提としているからこそ成立するものであったのだ。

 

岡村詩野氏も上記のように言及している通りだが、

「ホンモノ」を真摯に研究・追求しながらも、すべての要素において「ホンモノ」に縛られず自由な解釈を与えていくという点において、二項対立のモノを合体させようとする意味での“Eclectic”ではなく、

あくまで一方のモノを、別のモノ(つまり自身の生活感 ※この点は次回のエントリーで言及予定)に引き寄せていくことで、「二つのものの境界を曖昧にしていく」という意味で“Obscure”というタイトルを冠していると考えるとその意味が改めて腑に落ちる。

 

■メインストリームと化した「ロック」へのカウンターとしての「ポップ」

「J-POP」の成立については、前回・前々回にて軽く触れた通りである。
総称としての「J-POP」が日本製のポピュラー音楽を覆い、我々はそれまで連綿と命題とされてきた「洋楽への憧れ」(※欧米のように独自のポピュラー音楽カルチャーを日本に生み出すこと、という解釈である)を放棄することとなり、それは結果として、ポピュラー音楽の“J”化を加速させた。

すなわち、独自のポピュラー音楽カルチャーを生むための試行錯誤をやめたことによって、日本製のポピュラー音楽はある種の様式化を見せていく。

 

またその現象は、ロックカテゴリにも浸食した。
日本製のロックミュージックの、とりわけ若手のアーティストについて「ロキノン」という呼称が一般的になり始めたのは、おおよそ2000年代半ばのようである。そしてそれとほぼ同義として“J-ROCK”という言葉も使われるようになっていく。

 

※ちなみに「Yahoo!知恵袋」で「ロキノン」と打ち込み検索をかけると、「ロキノン」が含まれる投稿は2008年から急増しているため、少なくとも2008年頃にはすでに一般的な用語として浸透していたように思われる。(2004年:2件、2005年:9件、2006年:2件、2007年:13件、2008年:45件・・・ただし若干の誤差はあろうと思われる)


偶然か、あるいは当然の結果か、小沢健二の“Eclectic”と入れ替わるようにして同時期から日本製のロックミュージックの一部が“J-ROCK”としてカテゴライズされ顕在化、存在感を強めていった。そして現在に至る。

 

そんな中、ceroは本作においてこれまで自らの“contemporary exotica rock orchestra”という看板を降ろし、あえて“contemporary eclectic replica orchestra”という看板を掲げた。

“rock”から“replica”への変貌の意味するところ、それがすなわち、今日の“J-ROCK”化した―意地の悪い言い方をするならば、様式化した―日本製のロックミュージックカテゴリへの揺り返しである。

 

上記に挙げた以前の記事においてAwesome City Clubが「速くて、四つ打ちで、一体感を煽るような」昨今、メインストリームと化したロックバンド群に明確な違和感を呈し、

その上でブラックミュージックをバックグラウンドとした楽曲を展開、それでいてポピュラリティを重視していることを指摘したが、それと似たようなことがceroについても言えそうである。

 

すなわち、メインストリームと化しながら様式化したものが今日の日本の「ロック」ならば「ロック」でなくていいという意味での、「非・ロック宣言」としてceroの“R”の“rock”から“replica”への変貌を位置づけることができる。

だからこそ、彼らのやっている音楽は、広義の意味での「ポップ」―すなわち「ロック」ではないものという意味での、「ポップ」なのである。

 

さらに、そのスタンスのことをあえて“replica”と自称することは、様式化した「ロック」はもちろん、自身も含め、いずれにしても「ホンモノ」ではないのだ、という日本のポピュラーミュージックの原点に我々を引き戻す作用を持っているようにも感じられる。

 

 ■カウンター性からみる渋谷系との類似点

なお、こうした、タコツボ化・様式化しメインストリームとして消費されるようになったロック風のカテゴリの一群に対して、「ポップ」というスタンスによって、それらと距離を置くオルタナティブなあり方を体現したという点において、今日の「新しいシティ・ポップ」は渋谷系と相似形をなしている。

(このことは、以前のエントリーでも言及済みである。)

seaweedme.hatenablog.com

 

様式化した「ロック」に対し、楽曲の構造に着眼し、真摯に向き合うことによって新しさを生み出そうとする今作におけるceroの姿勢についてはここまでも引用してきたものも含む、下記のようなインタビューの中に見受けられる。

www.cinra.net

realsound.jp

 

金子厚武氏は「新しいシティ・ポップ」と渋谷系の相似について、田島貴男のインタビューを用いて提示している。私もその部分を引用しておくことにしよう。 

www.cinra.net

2010年ぐらいまでは、ロックらしい音楽が長いことブームとして続き過ぎたというか、渋谷系が出てくる前の状況と似ている気がしました。渋谷系が出てくる前も、破壊的、ロック的なインパクトがあるイメージを打ち出しているけれども曲は工夫されてなく、そんなに面白くないバンドが多かった。(中略)

きっと渋谷系の人たちは、その反動で楽曲主義の人が多くて、アーティストの気合いとか物語性とかよりも、曲の構造をこだわって作る人が多かった。やっぱり今の状況と似てる気がするんですよね。 (田島貴男発言より抜粋)

 

また、大衆音楽研究の分野において現在第一線で活躍する輪島裕介氏が、「ユリイカ『特集 はっぴいえんど』」(青土社、2004年9月号)に寄稿した論文において、90年代以降のはっぴいえんどの再評価の過程を示す中で、渋谷系について以下のような指摘をしている。

意識的に「ポップ」なスタンスを取ることによって逆説的に現代的な「対抗文化」の真正性を確保しようという意志も窺える。


「ピチカート・ファイブは様式化したロックに対する対抗として、フリッパーズ・ギターは様式化したパンクに対する反発として生まれた『ネオアコ』に影響を受けて、出発したに違いない」(後者は編集者/ライター 川勝正幸氏の著書の引用)

「『はっぴいえんど神話』の構築」―ユリイカ『特集 はっぴいえんど』(青土社、2004年9月号)、p.188

 

すなわち、「イカ天」を軸としたバンドブームの肥大化とロックミュージック(のようなもの)の裾野の広がり、またそれに伴った、内実を伴わない有象無象のロックのフォーマットを踏襲したバンドの出現(中には当然、後に影響を及ぼすようなアーティストも存在したが)、そしてそれらが泡沫のように消えていったこと―

そういった事象に対するカウンターとして、当時の渋谷系を位置づけることができるということである。

そして、その状況がここまで述べてきたような今日の「日本のロック」をめぐる状況に似ているということを指摘することができるというわけである。

 

Awesome City Club然り、cero然り、「新しいシティ・ポップ」と呼ばれるアーティスト群の「ポップ」の要素とはすなわち、このように対抗文化性に依拠するものと捉えることができるのではないだろうか。

 

■単なる相似形とは言い切れない「新しいシティ・ポップ」と渋谷系の関係

ただし、留意するべきは、渋谷系は金子氏の指摘のように、バンドブームに対する、その様式化へのカウンターとしての側面を持つ反面、

当時のバンドブームは、英米のロックのような、歴史とバックグラウンドを持った日本独自のカルチャーが生み出されることへの期待感もまた背負わされていたということ、

そして、しかしながら、バンドブームはその名の通り一過性のブームとしてあっけなく収束したため、そういった期待の挫折を招いたという部分である。

 

そのような状況を受け渋谷系は立ち現れ、例えば、原曲の文脈から切り出してコラージュしてしまうような、フリッパーズ・ギターのような手法を通じて、英米のロックのようなカルチャーを生み出すという日本のポピュラー音楽の長年の命題の無効化を、やってのけてしまったわけである。

そして、そのことがJ-POP成立の1つの契機にもなったという側面もまた、渋谷系は持っている。(以下記事参照)

seaweedme.hatenablog.com

 

よって、対抗文化性という側面のみ切り出せば、今日の「新しいシティ・ポップ」は渋谷系と相似形という具合にも見えるが、

一方で「新しいシティ・ポップ」のカウンターの相手である“J-ROCK”はJ-POPの枠組みの中から誕生したカテゴリであることを考えると、

実は、それら4者の関係は、以下のような関係にあるとまとめられる。

 

f:id:seaweedme:20150719165824p:plain

 

 

私は先に、ceroの本作について「自身も含め、「ホンモノ」ではないのだ、という日本のポピュラーミュージックの原点に我々を引き戻す」ものであると書いたが、とはいえ、だからこそ彼らは日本ならではのオリジナリティ(=カルチャー)を追求していることは留めておかなければならない。その意味においても、渋谷系とは若干趣きを異にする部分であろう。

 

「対抗文化性」の側面を紐解くと、様式化への対抗と、「ホンモノ」ではないことを受け入れながらもその境界を“Obscure”にしていくことでなんらかのオリジナリティ(=カルチャー)を生み出そうとする2つの側面が(それぞれ一部重なり合って)浮かびあがってくる。

 

 

なお、「新しいシティ・ポップ」は「同時代性」という点においても渋谷系と共通している部分がある。次回はその点を掘り下げながら彼らの“シティ”の側面を見出していきたいと思う。

 

cero/Obscure Ride を“シティ”と“ポップ”に分解する [続・ニッポンの内と外] ― (0)小沢健二/Eclecticの「イビツさ」についての一考察

 ceroの3rdアルバム”Obscure Ride”が約1ヶ月ほど前にリリースされ、各所で絶賛を浴びているのは周知のとおり。

 

Obscure Ride 【初回限定盤】

Obscure Ride 【初回限定盤】

 

 

このリリースに絡んで当然、多くの言説が生まれているわけであるが、とりわけキーワードになってくるのが(その用法の賛否含め)「新しいシティ・ポップ」という言葉だと言ってよいだろう。

 

 今回は、それらの言説をもとに、あえてこの”Obscure Ride”を「シティ」と「ポップ」に分解して考えてみようと思う。

  この作品の、さらには一歩俯瞰して、この「新しいシティ・ポップ」というムーブメントの「同時代性」と「対抗文化性」―その意義を考察するのが今回の狙いである。

 

小沢健二/Eclecticの抱えていた「イビツさ」の正体

 各所で述べられている通りであるがcero/Obscure Ride は小沢健二/Eclecticに影響を受けた作品となっている。(この点については他が詳しいのでここではあえて説明しない)

 

 下記のcero/Obscure Rideの宇野維正氏のレビューだがここで語られる小沢健二/Eclecticとの関係について興味深い点があった。

thesignmagazine.com

2002年の小沢健二が、あの奇跡のように美しく、どうしようもないほど孤独で、少々イビツな作品に『Eclectic』と名付けたこと。当時、自分はそこにどこか失意や絶望を帯びたニュアンスを感じ取らずにはいられなかった。

 

 私はこの小沢健二/Eclecticにおける「孤独」や「イビツ」さ、「失意や絶望」という点についてそのゆえんを探してみることにした。

 そして1つ、思い当たったのが、この作品の特徴とも言える、女性コーラスの存在感だった。

 

 本作品はすべてアメリカでレコーディングされており、コーラスは現地のアメリカ人によるものである。それゆえに歌詞そのものは片言のように聴こえ、意味をもった日本語として浮かび上がって来ない、どちらかというと「楽器としての音声」といった印象を聴き手にもたらしている。日本語の歌詞ならば日本人がコーラスしてもよかったはずなのだが、なぜこうした効果を狙ったのだろうか。

 

 実はそれこそがこの作品の「失意や絶望」という側面を深く表現しているのではないだろうか。

 

 “Eclectic”は日本人が日本人として忠実にR&Bを具現化しようと試みた作品であると言ってよいだろう。

 前の記事で述べたように、ポピュラー音楽において輸入国である日本は「洋楽」に対して「追いつかなくてはならない」というテーゼを自ら長年掲げ続けてきたことによって、その歴史を発展させてきた国である。(下記参照)

当然、ブラックミュージックについてもある種の憧憬を抱いてきたことは間違いない。

 

seaweedme.hatenablog.com

 

 だが一方で、一般的に、どんなに忠実に再現できたとしても、どうしても残ってしまうわだかまりがある。

 宇野氏も先のcero/Obscure Rideのレビュー内で以下のように続ける。

一方、ceroは今作を『Obscure Ride』と名付けた。「折衷」と「曖昧」。いずれの言葉も、非黒人ミュージシャンがブラック・ミュージックの(イミテーションではなく)本質に近づけば近づくほど何度も不意に襲われるに違いない、ある種の「後ろめたさ」を表しているようにも思えるのだが(以下略)

 

「どんなに上手く演奏を再現しても、背後にある歴史や精神性はトレースできない」。

そう、この壁を、厳然として超えられないという一面も否定できないのだ。―それは小沢健二に限った話ではなく。

 

 つまり、翻って、小沢健二/Eclecticの中の、あの、違和感のある現地アメリカの人による片言の日本語のコーラスというのは、

実は、ポピュラー音楽における、我々の、黒人への憧憬のまなざしを反射させるがごとく、逆説的に表現したものなのではないだろうか。

 

 我々はポピュラーミュージックの分野において、黒人を、ひいては「洋楽」の担い手である欧米の人々を、憧憬とともにまなざす立場であるわけだが、

その事実を「違和感のあるアメリカ人の日本語のコーラス」、すなわち、欧米の人々が我々日本人をまなざし「返す」という視点を、作品の中に組み込むことによって投影させる、という企てが小沢健二/Eclecticという作品の内包する構造のひとつと言っていいだろう。

 

 J-POPという言葉が当然のように浸透し、日本のポップスにおいて「洋楽」に「追いつく」ことが長年のテーマであったことがすっかり忘れ去られた2002年当時、愚直に、日本人として、ブラックミュージックを体現しようとしたという点において、小沢健二/Eclecticは非常に希有な作品だということは、言うまでもない。

 

 だが反面、どんなに上手くやれても、日本人の自分には、歴史や精神性までは再現できないというジレンマ―どこまでいっても「ホンモノ」にはなりきれない、モノマネに過ぎないという自意識―

その物悲しさや虚無に、小沢健二は、自らの孤独を見、ほんのすこし皮肉めいて、日本とブラックミュージックの、「折衷」― “Eclectic”と名付けたのだろうか。

 

 

 日本のポピュラー音楽は、美しくだが物憂げな、この小沢健二/Eclecticという希有な作品が世に出て以降約13年間、その失意を抱えたまま、良くも悪くもいわゆる「ホンモノ」と向き合う積極的な姿勢の沈黙を見続けていた。

 そんな状況の中リリースされた、ceroの“Obscure Ride”という作品のもつ意義はどう捉えることができるだろうか。

 次回更新以降でいよいよこの本題に入っていきたいと思う。

 

 

 

 

補論: “J”という記号、ニッポンの内と外

次はceroの話をすると言っていたのですが、

一旦、短い違う話を書くことにしました。

でもこれは次の話をするのに、しっかりつながってくる話なのです!

 

新しい“シティポップ”と渋谷系について書いていくつもりなのですが

ここでその下準備を挟もうかと思います。

 

そもそも日本のポピュラーミュージックの歴史というのは、

明治以来、「日本の内と外」という二項対立的構造の意識の中でつむがれ続けているものではあるのですが

今回は“J-POP”と日本の内と外の関係を断片的に拾い上げます。

 

よってそこまでの歴史は全く今回は説明しきれないのですが

渋谷系ブームとも前後する、“J-POP”の誕生を起点に非常にざっくり!まとめてみました。

 

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“J-POP”とはご存知の方も多いと思うが

90年代の初め、当時、洋楽しかかけなかったJ-WAVEが、日本のポピュラーミュージックをかけるにあたって、

「欧米に比肩する日本製のポピュラー音楽」

という意味で編み出した言葉とされている。

 

明治からその時点まで、欧米の音楽を吸収してその過程でオリジナリティを創り出し「世界に認められる」ことが1つの命題であった日本のポピュラー音楽のあり方というのは、

“J-POP”という言葉が生まれたその瞬間もなお、「進んだ欧米/追いつけない日本」構図を下敷きにしていた。

 

ということはつまり、“J-POP”というのは、「欧米に比肩している」という内実よりも、言葉のほうが先に作られた概念なのである。

 

そのことがなにを示すか。

“J-POP”という言葉が生まれたその時点において「日本製のポピュラー音楽は欧米に追いついた」ということに“してしまった”ということだ。

 

もちろん、この考え方は、日本はポピュラー音楽において「文化輸入国」であり後発国であるという前提に立ったものである。

 

その前提はひとまず認めるとしよう。

 

そうすると、自らの「世界に認められる」ことを1つの大テーマに持ち続けた日本製のポピュラー音楽のあり方というのは、

“J-POP”という言葉が生まれたことで、むしろ海外を指向する必要性がなくなったわっけである。

 

よって“J-POP”という呼び名で呼ばれるようになったことを起点に、日本製のポピュラー音楽は、ドメスティック性を深める方向にシフトしていったとも言える。

 


さて、ここまでが“J-POP”成立前夜の話だとし、そこからざっと20年強が経った現在の日本である。

“J-POP”がすっかり浸透し海外に憧れを抱く必要性がなくなったからか、

人々は“J-POP”で自給自足すれば満足できるようになった。

(若者が洋楽を聴かなくなったと言われるようになってからも久しい。)

 

海外を指向しなくてよくなったはずの日本製のポピュラー音楽“J-POP”は、

今、自らを海外に売り込もうとしている。

 

それは、ひとつには、国内の少子高齢化、市場の縮小を見込んだ単純明快なグローバル戦略とも言える。

 

だが一方でBABYMETALや初期のきゃりーぱみゅぱみゅなどは、ただ海外でウケた、というだけでなく

そのことを「欧米でも人気!」といった具合に、逆輸入的に見せるやり口が、日本国内でプロモーションとして効いた、という話も聞く。

 

“J-POP”だけ聴いてればOKという通奏低音もしっかりあるのだが、

しかしながら「進んだ欧米/追いつけない日本」という構図意識もいまだに我々の中にはしっかりと根を張っているのではないだろうか。

「欧米=ホンモノ」という意識がやはりいまだに根強くあるからこそ、

「欧米のお墨付き」という黒船宣伝効果はそれなりに効果を発揮するのだと言える。

 

ただし、この「欧米のお墨付き」は、果たして「欧米に同等として認められた」ことと等しいと言ってよいのだろうか。

いわゆる“COOL JAPAN”であったり、“J-〇〇”として海外に注目をされるそのあり方というのは、

述べてきたように、日本がポピュラー音楽において“J-POP”という言葉でもって「鎖国」をしたことで、

日本人にしかウケないニッチで独自な方向性を突き詰めた文化が(それが国内ではタコツボ化を招いている一因でもあるのであるが)

現地で、ある種のエキゾチズムをもっておもしろがられている、という側面も強いのではないだろうか。

BABYMETALやきゃりーぱみゅぱみゅなども言ってみれば現地ではサブカル的なおもしろがられ方であって、決して王道として評価されているわけではないとも聞く。

(BABYMETALはメタルレジェンドなどに孫のようにかわいがられSNSなどに投稿されるから注目されがちなのであって、実は実際のメタルファンからの支持はごく一部である、とも聞いたことがあるが果たして・・・。)

 

 

要は結局、私たちはこの“J”という厄介な記号を纏うことで

この20数年、「ホンモノ」というその超えられない壁にお手上げして開き直ってきたのではないだろうか、などと考えてしまうわけであった。

 

さて、この前提をもって、

ceroの新譜“Obscure Ride”のキーワードである

“Obscure(曖昧)”と“Eclectic(折衷)” 、そして“Replica(模造)”の意味に迫ることができそうである。

 

ということで、次回こそ、やっと本題に入ってゆきます。

 

「ネオ・シティポップ」という新しいカウンターカルチャーの在り方の可能性 ―(4)戦略性は「悪」なのか

前回から間が空いてしまいましたが、

ACCが活動をしていくにあたってのその戦略性にフォーカスが当てられていることに嫌悪感を抱く人がいるのはなぜなのか、という前ふりを1回目でしてしまっていたので最後にその点について考えていきます。

 

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ACCの戦略性自体はシーンに対する一種の対抗的態度なのではないだろうか。

 

「友情」「努力」で人気者になるという「勝利」を手にするというモデルが理想化されたロックフェス的バンドは、そのプロセスの「純粋な地道さ」が、ファンからの求心力となっている節がある。

「大人たちに対する我々若者の気に入らない気持ち」を代弁することをコアメッセージにしているバンドたちだからこそ、

裏を返せば、リスナーの側も、彼らが成功しているのは「大人の事情」などではなく、純粋な努力によって地道に力をつけた結果だ、というサクセスストーリーをバンドに求め、

そういったバンドにさえ多かれ少なかれあるであろう「商業的な戦略」という側面を、自らの中で都合よく不可視化しているのではないか。

(周りの「大人たち」の意思もあるだろうが、100%本人たちが操り人形だということもないだろう)

 

だからこそ、メンバー自身から、プロモーションや戦略などという「商業的な臭いのする」「大人の汚い手」を使うことが喧伝されることは、リスナーから嫌悪感を抱かれやすいのではないだろうか。リスナーにしてみれば、信じていたモノの見たくない部分を見させられているようなものなのだから。

 

似たような例でいえば、クラムボンのミト氏が3月のアルバム発売の際にインタビューが想起される。

realsound.jp

 

ミト氏による、

アーティストもプロモーションに関わっていくべきだという内容の発言、

あるいは、クラムボンのメンバーもリスナーが想像しているように仲良しこよしで楽曲を作っているわけではない、という点が明らかになった発言、

はかなりの波紋を呼んだ部分であった。

 

このインタビューでクラムボンが嫌いになったというつぶやきも見かけた。

(おおかたの人からは賛同されてはいるのだが。)

 

 ※ツイート日は上記記事がアップされた日付かつ当該アルバムが発売された日付である。

このつぶやきではインタビューを読んで嫌いになったのか、そうだとしたらどの部分を読んでそう感じたのかは定かではないが、雰囲気だけはわかってもらえればと思いあえて引用させてもらいました。

 

 

それは1つには、リスナーがバンドに抱く「メンバーの友情」という理想が否定されたからではないだろうか。

このミト氏のインタビューは、アンチテーゼというより、そうでもしなければ、ポップスのシーンで戦っていけないという切実さを伴うものであったが、

いずれにしても、自身のバンドに対するドライで冷めた姿勢をあけすけにするというのはリスナーの理想を打ち砕くのには十分、ということが分かる事例である。

 

ACCについての記事の多くは、音楽的な側面を取り上げていないからダメだ、というGotchのような意見もあろうが、

彼らに関しては再三指摘してきた通り、戦略的でドライなあり方をある種、他の昨今のバンドにはない武器として打って出ていこうという姿勢が見られ、それ自体がシーンに対する反骨精神、アンチテーゼであるという点で、特記すべきことだとも考えられる。

(この点は、(1)~(2)で細かく分析してきたのでぜひ読んでいただければ。)

 

seaweedme.hatenablog.com

 

seaweedme.hatenablog.com

 

「戦略的でドライなバンドのあり方」を見て不快になる人というのは、

「友情」「努力」で人気者になるという「勝利」を手にするというモデルが理想化されたロックフェス的バンド、という

(こうした言い方が許されるのであれば)いわば「古いスタイル」に執心する古いタイプのリスナー…少なくとも、これまで述べてきたような新しいカウンターの波に未知の違和感を抱きながら眉をひそめ困惑している人々なのではないだろうか。

 

そもそも、そうした今のロックフェス的バンドの大きなルーツである00年代の邦楽ロックバンドの代表格がGotch率いるアジカンというところもなんだか、示唆的である。

とはいえ、そういった新しいシティ・ポップのバンドたちの音楽性には高い評価をしつつも、アジカンGotch)自身は、ここにきて改めて「王道のロック」にて彼らを迎え撃とうとしているのではあるが。

 このことはまた機を改めて書きたい。

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次回からはAwesome City Clubから離れ、この「新しいシティ・ポップ」の流れをカウンターカルチャーという視点から掘る作業をもう少し続けてみたいと思います。

そして次に題材に選ぶのは、今ホットなceroを予定しています。

 

なるべくホットなうちに間をあけずに更新したい・・・!応援よろしくお願いします!

 

「ネオ・シティポップ」という新しいカウンターカルチャーの在り方の可能性 ―(3)ネオ・シティポップのカウンターカルチャー的側面

第3回目です。

第3回目、第4回目は、これまでに比べると、私の個人的な偏見、感覚をもとに書いている側面が強くなっているかと思います。

 

特に前の記事から使い始めている「ロキノン系」という言葉、これの指すものについては極めて曖昧で語りづらく、ゆえに慎重に扱わなくてはいけない言葉ですね。

みな、それぞれが「イメージ」として使っている部分も多く、それゆえ様々な解釈、異論も多いのは周知の通り。

 

人々のイメージの中で生み出されてきた概念だからこそ、言説空間でどのように扱われてきたのかという点は考慮しなくてはいけないとは思いますが、

その点については今後の大きな課題として、

 

ここではひとまず、ブラックボックスとして先に進みたいと思います。

 

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これまでACCの例で見てきたように、
この「ロキノン系」が仮に、友情・努力によって勝ち上がる「バンドドリーム」を胸に、

縦ノリの一体感・メッセージと共感を重視して若者の人気者になっていったバンドたちだと乱暴にくくってしまえば、
ACCのような、そうしたあり方へのオルタナティブな選択肢を提示するバンドスタイルが現れている昨今の構図、というのは興味深い。

昨今、ロックフェスが社会現象となり、各フェスは年々規模を拡大してきた。日本のロックバンドが当然のように地上波の音楽番組にも出るようにもなった。少し前に比べて、彼らが「ブラウン管の中で評価される」のが当たり前になった感覚がある。

 

けれども彼らはかつては「ブラウン管の中で評価される」のを拒んでいたのではなかったか。

(注:初期のBUMP OF CHIKENのいわゆる「ブラウン管発言」をフィーチャーして取り上げてますが、これは象徴として使いやすかったためで特にそれ以上の意味はありません…。)

 

大人たちへの不信・不満、あるいは若さゆえの内省的な衝動を核として音楽を生み若者の共感を得てきた「ロキノン系」「邦楽ロック」と呼ばれたものは、今やメインストリームカルチャーの1つとなりつつあるのではないか。

そのせいなのか分からないが、音楽性も、ファンの振る舞いも、ロックフェスブームのせいなのか、どこか均質的とも言えなくはない。

 

ACCに限って言えば「頭打ち」という言葉が本人たちから出てきたように、
こうした昨今の状況を見、なにか別のことをしなければという危機感があったのかもしれない。

彼らは、実は若手と言えるほど、年齢的には若くないようだが、活動自体の開始はかなり最近、という点ではCDが売れないという悲観的な状況ばかりが騒がれているのを体感してきた上で活動を始めた世代である。
だからこそ、暑さや夢だけで押し切れる、そういう時代ではない、と肌感覚で感じている世代でもあるのだろう。

 

感情的な要素は歌詞から排され、海のむこうで再評価の動きのあるソウルやディスコテーク的なエッセンスをベースに、メロディを立たせ、エレポップ風のシンセ音をアクセントに重ね、とにかく耳障りよく心地よくまとめた楽曲も、

音数が多く性急な曲に同世代の共感を誘うエモーショナルな歌詞を乗せ煽るような、ロックフェス的バンドたちの楽曲とは対照的だが、

それだけでなく、
自分たちの見せ方、楽曲の広げ方を、自分たちで、クールに知的に、戦略的に管理する方法論、
暑さや一体感を求めるのではなく、そこにいる人々が有機的に混じり合う多幸感のある空間を提供するという考え方、
それらは、そのあり方自体をもって、地道に勝ち上がる従来のバンドスタイルを否定する意志表明なのかもしれない。

 

若者を熱狂させるロックフェス的なバンドは、かつてオルタナティブと見なされていた00年代を代表するバンド、アジカンバンプなどが1つのルーツとしているとされる。

 

アジカンが一番のルーツにあるってことは全然恥ずかしいことじゃないし。確かに「ルーツはボブ・ディランです」とか言った方が世の中的には格好いいかもしらんけど(笑)。でも別に僕らはそれを格好いいとは思わないし、僕らは信じたバンドをこれからも信じ続ければいいと思うし、だから、アジカンがルーツにあるって言われること自体への抵抗は、全然ないですね。*1

 

そうした今の「ロキノン系」バンドが、もしかすると、いまや、彼らACCのような存在によって、

「もうすでに古いスタイル」として否定される構造の端緒を我々は見ているのかもしれない

 

ちなみに、こうした「かつてカウンター(注:メインカルチャーとは異なるオルタナティブな、という意)カルチャーであったものがもはやメインカルチャーとして広く消費されるようになった段階で、そうした状況に異を唱える」あり方というのは、70年代後半のパンクムーブメントにも構造的には似ているように見える。
ただ一方で、直接的に、また音楽性を鑑みたとき、日本においては、ニューミュージック、あるいはバンドブームの否定の上に登場した、90年代初頭の渋谷系の在り方と相似形であるように感じさせられる。

 

私小説的で、聴き手の共感をさそう歌詞を特徴とした、ニューミュージック、
あるいは日本でも独自の「ロック」が生まれるのではないかと期待感を抱かせながらも結局は尻すぼみとなったイカ天を発端としたバンドブーム、
これらを否定するかのように、
メッセージ性を拒絶し、海外の音楽シーンの動きと連動しつつ、時代や国を越えたポップスをルーツとした楽曲を生み出しながら
のらりくらりと捉えどころがないドライな態度で大人たちを翻弄し、その実、確信犯的にそれまでのポップスのあり方を否定する

オシャレで新しいスタイル、と(個人的には解釈しているのだが)して渋谷系の一側面を捉えるとすれば、ACCはその点において似ていると言えそうだ。

 

ACCは(本人たちはあまりそのような自覚はないようだが)一般にシティポップとしてくくられる傾向にある。
また、このところ同様な、いわゆる典型的なロックフェス的なバンド群とは趣を異にするシティポップ風の若手バンドが増えているとも言われ、それらはまとめてネオ・シティポップ、新しいシティポップなどと呼ばれたりしている。
Lucky Tapes、Yogee New Waves、cero などが該当するだろうか。

第1回目の冒頭に引用させていただいたツイートもこの点を指摘している。

 

 

ただYogee New Wavesはかなり歌詞での自己表現というところに重きを置いているバンドなので上記のくくり方にはあてはまらないかもしれない。

Lucky Tapesはブラックミュージックをベースにしながらメッセージ性よりも心地よさを追究しているという点ではかなり共通している。

(以下記事参考)

www.cinra.net

 

こうした渋谷系との構造的な類似点を持つ動きは
言ってしまえば、新しい渋谷系のようなものがここから生まれるのではないか、という期待感を私たちに抱かせるには十分なほどの規模になりつつあるように感じている。


※シティポップというくくりにこだわらなければ、他にもいわゆるロックフェス的なバンド群とは異なる音楽性を持つ若手が目立つようにもなってきている。(HAPPY、The fin.などの洋楽ライクなバンド、あるいはシャムキャッツ、森は生きている、ミツメなどのフォーキーなアプローチのバンドなど…)

これらをここで一緒くたに扱うには、さすがに手に負えないので今回は一旦置いておくが、
少なくともそうした「速くない」「00年代の「ロキノン系」を直接のルーツとしていない」若手の存在感というのは、大きくなっているという感覚がある。

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次回が一旦最終回です。

最後は、バンドの「戦略性」が取り沙汰されることが批判される傾向にある背景について考察していきたいと思います。

 

 

 

 

「ネオ・シティポップ」という新しいカウンターカルチャーの在り方の可能性 ― (2) Awesome City Club、ポップネスのなかの冷めたアンチテーゼ

前回の続きです。

 

 ACCのインタビューなどを紐解いていくうちに、「メッセージがない」というスタイルこそが実はある種のメッセージでもあるのでは、という逆説的な考えに至ったのですが、

そういった意識がバンド内で醸成されていった過程の中には
彼らのもともといた「下北沢のバンドシーン」とはオルタナティブなバンドの在り方を提示する意識が少なからずあったのではないか、と(勝手に)感じています。

 

そんな「下北沢のバンドシーン」を強引かつかなりざっくりと概観しつつ

ACCとどのような点において異なるのか、考察していくのがテーマです。

 

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「下北沢のバンドシーン」といっても非常に曖昧で一言にはもちろん語れないが

(そもそも「下北沢」とくくるのもかなり強引だが)インタビューなどで彼らが意図するあり方は、

仲間や友達同士でバンドを組み、自主制作などでCDを作ってライブの時に売り、地道にライブを重ねてお客さんを増やす。あわよくば、インディーズで力をつけてメジャーデビュー、

乱暴に言ってしまえば、仲間同士で地道に活動し勝ち上がって夢を掴む、

というあり方を理想とするスタイルだ。

(ジャンプ風に言うと「友情・努力・勝利」型とも言えそうである。)

 

彼らが以前のそれぞれのバンドでうまくいかなかったという経歴を持っているということ、またそうしたやり方のバンドたちが(音楽的には良いものをやっているにもかかわらず)頭打ちになっている現状を見てきたということが関係している、と語られているように、
彼らはそういった活動スタイルを明確に拒否している。その点では、非常に、ドライでリアリストであり、冷めた感覚を持っている。

 

インタビューから見えてくる在り方は、具体的には

■ライブ以上に、制作に重きを置き、まずはCDを焼いて売るのではなく、音源をスピーディーにネットで広める

今まで自分たちがやってきたインディー活動――ライヴやって、デモ作って、みたいなステップアップしていく手順を全部ナシにして、最初から違う形にしたかった*1 

もともと僕らがいた下北沢のバンドシーンは、ライブをたくさんやって、集客のためにフライヤーをまいて……という地道なやり方が主だったんですけど、それだとスピードが遅いと思ったんです。まずデモCDを作って物販で500円とかで売ることにも、いまいち合点がいってなかった。*2

 

■ビジョンを明確にし、それをどう見せていくかを練った上で活動

アー写を作るなら作り込んだものにしたいし、ホームページを作るならちゃんとしたものにしたい。キレイじゃないものを世に出すくらいなら、何もしない方がいいっていう考えで。*3

 

といったところだろうか。
(メンバーを決める際に、こういう人が必要だから、というところから、探したというエピソードも、ビジョンを明確にして活動するというところにあてはまる。)

歌詞、音楽性についても、「下北沢のバンドシーン」なるものとは対称的だ。

 

比較対象とする「下北沢のバンドシーン」

――このまとめ方、そして以下の解釈はかなり強引だと自覚しているが、どうか今回は不勉強を許してほしい――
言ってみれば、現在のいわゆる「ロキノン系」と呼ばれる若手バンドは(実際に下北沢で活動していたかどうかは別として)
仲間や友達同士でバンドを組み、地道にライブを重ねてファンを増やし、インディーズで力をつけてメジャーデビュー、

というあり方で人気者となった、という(実際はどうなのか、というところはこの場で断言はできないが、少なくとも、そういった)イメージをまとっているという意味で、

「下北沢のバンドシーン」というものにある程度該当するとしよう。

 

さて昨今、どこかしこでも出てくる話題だが、
ロキノン系」と呼ばれる若手バンドの曲は、ロックフェスブームとも相まって、
テンポが速く、激しく、縦ノリで、ライブでの一体感を煽るようなものが増えていることが指摘されているのは周知の通りだ。
会場はさながらスポーツイベントのようでもある。

 

また、若手、ということもあり、若さゆえの初期衝動、あるいは、同世代のファンに訴求するような、同世代・同時代的な共感を煽るメッセージ性が歌詞作りのベースにある傾向が強い。
※(失礼ながら)ルックス、という点でも、いたって普通、だが普通で友達にいそうだからこそ、同世代には最大に求心力があるとも言えるのかもしれない。

 

ACCは、これまでも述べてきた通りだが
「メッセージ」「速さ」「一体感」という点においては、カウンターを打つつもりだと明言している。

「メッセージ」については、前回の記事の通りだが、

例えば、「速さ」についてはこんな具合だ。

ACCを始めたときくらいにちょうど日本のバンドシーンのBPM問題みたいな話がメディアでも出るようになって。(略)自分でそこにカウンターを打つみたいな意識はありましたね。*4

 

BPMに関しては「みんなちょっと速すぎない?」って思いはありますよね。だから、なるべくムーディーでゆったりしたビートでやりたかったし、歌詞に関しても、できるだけメッセージ性をなくして「音楽の力だけでアガろうよ」っていうものにしたかった。*5

 

また彼らは、みんなで一緒に盛り上がるというライブ、ではなく、
多幸感のある「空間」を作り、お客さんに提供するということを意識しているようだ。

 僕らのライヴが素敵なBGMであったらよくて。(略)ACCがライヴをやってるなら、そこは絶対におもしろい場所だろって思って来てもらって、ライヴを観るよりも誰かと話したくなったらバーカウンターにお酒を飲みに行ってもらってもいいし。最終的にお客さんが“今日は楽しかった”って思ってもらえる空間を提供したいんですよね。*6

強いられた「一体感」ではなく、様々な人が心地よく好きに振る舞うことで有機的にできあがる「空間」を作る、そしてそれを包み込む彼らの音楽、という位置づけ。


だからこそ、歌詞に共感を煽る具体性や、メッセージは不必要なのであり
年代や地域も雑食で、しかしながら、とにかく心地よくそして大衆的な音楽性が必要となってくるのだろう。
主流の「ロキノン系」の特徴である「メッセージ」「速さ」「一体感」は彼らの目指すものにとってはむしろ邪魔なのではないだろうか。

 

※なお、これも一時期物議を醸していた話題だが、今、アクティブなロックキッズの若者にホットなバンドというのは、ほぼ00年代の(つまり彼らが中高生の時に流行った)ロキノンと呼ばれていたバンド「だけ」が直接のルーツになっているとされているが、その点も、年代や地域も雑食なACCの楽曲とは対称的である。

(失礼ながら、ACCは佇いも洗練されており、そこも「ロキノン系」とは大きな違いだろうか。)


このように見ていくと、彼らの戦略性というのは、音楽性の面にも密接に結びつき合いつつ、

「下北沢のバンドシーン」へのカウンターの姿勢として作用しているように思えてくる。


戦略的に活動すること、ドライで冷めた感覚で自分たちを俯瞰すること、

その行為自体が、そうではない、今主流となっているバンドスタイルへのアンチテーゼとも取れそうだ。

 

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次回は今回洗い出したACCのカウンターカルチャー的側面を掘り下げつつ、

本題である昨今盛り上がりつつある新しいシティポップの動きを眺めていきます。

 

 

 

*1:シティポップの新星 Awesome City Club 「36.5℃」の情熱に迫るhttp://ro69.jp/feat/awesomecityclub_201504/page:1

*2:大注目株Awesome City Clubが語る、新しい時代のバンド論
http://www.cinra.net/interview/201504-awesomecityclub

*3:Awesome City Club SPECIAL INTERVIEW http://accgov.net/talk/talk_1.html

*4:Awesome City Club「オシャレで何が悪い」、メンバーが語るバンド誕生から “シティポップ”論まで
http://top.tsite.jp/news/i/23094689/

*5:Awesome City Clubが明かす、バンドの成り立ちと活動ビジョン「ドカンと売れたら一番おもしろい」http://realsound.jp/2015/04/post-2940.html

*6:Awesome City Club「オシャレで何が悪い」、メンバーが語るバンド誕生から “シティポップ”論までhttp://top.tsite.jp/news/i/23094689/

「ネオ・シティポップ」というカウンターカルチャーの在り方の可能性 ―(1) 具体例:Awesome City Club の注目されるポイント

ほぼほぼ初めてのエントリーにしては気合を入れすぎてしまい、超長くなりました。

今後は簡潔に書きたい!と思いつつ、今回は連載形式にいたします。

 

私はかなり日本のバンドモノの音楽に偏っている節が多分にありまして、今後もそういった話題が多いのではないかと思いますが、

今回もまさにそういった話題です。

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最近ちまたで話題の日本のバンド(?)Awesome City Club(以下ACC)。

4月にメジャーデビューということだが、彼らを取り巻く言説もまた興味深いことになっているように思う。

すなわち、バンド活動をしていくにあたってのその「戦略性」にフォーカスが当てられがちであるということ、そしてそういったフォーカスの当てられ方に嫌悪感を抱いている人々もまた少なからずいるということである。

 

今回は、タイミング的には1ヶ月遅れとなってしまったけれど

彼らのWEB上で公開されているインタビュー、及び解説記事をいくつか眺めながら、前述のようなざわつきの根源を探してみようと思う。

 

ちなみに、今回のテーマのタイトルはこちらの方のつぶやきに共鳴するような形で付けさせていただきました。勝手に申し訳ありません。ありがとうございます。。

 

また私個人は、ACCの楽曲はお気に入りで、活動スタイルにも肯定的なので、どうしてもそういった主観が入ることはまず断っておきます。

 

私が今回目を通した記事は、文末に。

※ちなみに、紙媒体(雑誌など)での記事ももちろんあるでしょうが、リリースタイミングでのインタビュー記事というのはえてして内容がほぼ被っていることも多いので、今回はとりあえず割愛しています。

 

そして、今回はこれらのインタビュー&解説記事から、あえて2点のみを抽出して検討していきます。

 

①音楽性

②活動スタイル

※2点はクロスする部分も少なからずあると思いますが、便宜上分けてみました。

 

①音楽性

メンバーいわく「ちょっと80'sっぽい感じとブラックミュージックが混ざっていて、で、現代風のダンスミュージックに昇華されていて、かつ歌モノ」*1をやりたいというのがバンドを始める際のイメージであったという。

 


Awesome City Club - Lesson (Lyric Video) - YouTube

 ※私が個人的にいたく気に入っている、"Lesson”。

 

ねっとりと粘っこいグルーヴィーに練り込まれたリズムの上に、彼らの言及するチルウェイブにも、あるいは80年代のエレポップなどにも影響されたサウンド、そして(またこれも言及されているが)現代のUSインディのような洗練されたメロディ。

そして、(歌声そのものはよりあっさりとしているものの)やはりソウルを彷彿とさせる男女のコーラスワークなど、そしてそれらが喧嘩せずに調和し、心地よくまとまっているあたりから察するに、彼らの当初の目論見はかなりの部分で成功しているように思う。

 

これだけ見るとやたら玄人好みな音楽にも思えるが、一方で彼らは「洋楽的な符割に日本語を当てるというのも最初から決めていたことだし、王道のポップミュージックに対する嫌悪感はまったくない」*2と言い切るように、大衆的であることを意識した曲作りをしていることがうかがえる。

 

※これは、②とも関係してくる部分ではあるが、ここ数年「ガラパゴス化する日本のポピュラー音楽シーン」という話題が取り沙汰されるように、現在進行形の「洋楽」*3から切り離されたアーティストが増えているとされている。よって、少なくとも昨今のポップミュージック言説の中では、同時代の洋楽の動きを取り入れている若手のほうが珍しく、そういったアーティストは「玄人」好みでニッチ、と見られるきらいがあるように思う。

 

海の向こうのインディロック、あるいはソウル~R&Bをルーツとしたディスコテーク風のポップミュージックの盛り上がりと共振しながらも、あくまでマニアックな方向には向かわず、心地よさや大衆性、普遍性をもたせていくことに貪欲であるとうかがえる。

 

※もう少したんなる感想を書きたいところでもあるが、本筋と離れてしまうのでまた機を改めて。

 

②活動スタイル

彼らについては今回のメジャーデビューのタイミングにあわせ、改めてそのような戦略的な側面について語られる場面が増えている。

明確に言及されているものの1つが、こちらのナタリーの特集記事である。

natalie.mu

 

他の記事でインタビューされている宇野維正氏も含めた3者にてACCも含めた2015年春にメジャーデビューをしたアーティストと、日本の音楽シーンを絡めた分析・鼎談記事で、(主に宇野氏が)ACCの戦略的な側面を絶賛している。

彼ら男3、女2なんだけど、“主宰”のマツザカタクミくんと主に曲を書いてるatagiくんっていう男の子2人が中心になってバンドの基礎を作って。その時点で、あと男1人と女2人を入れて5人組にしようって、まずメンバー構成から決めたらしいんですよ。(略)そのくらい戦略的なんだけど、そういうバンドのあり方がすごく今のシーンを象徴してるかなと思いました。

物事を考える人、歌う人、曲作る人ってバンドの中で役割分担して、いろんな要素を持ってる 

*4

ここで言及されているのは、要するに、多くの人に見てもらうため、聴いてもらうための方法論に彼らが非常に自覚的で確信犯的な点だ。

しかしそういった点に「音楽ライター」達が色めきたっていることに対して批判的な反応も少なからずある。

 

 

 

Gotch氏については明言はしていないが、タイミング的に考えても、

また実際には、ACC本人たちと相思相愛という事実も鑑みると、

おそらく前述の記事などでのACCの取り上げられ方に不満をもち、多かれ少なかれ意識している発言なのではないだろうか、と勝手に勘ぐっている。

 

さて、当然、彼らはアーティストだからこそ、戦略性だけでなく音楽性にも寄り添って評価すべきだというこうした考え方にはおおむね同意するが、

一方で、私はこうした戦略性こそが、ある種彼らの活動の「メッセージ」ともなっているのではないかと感じている。(これが今回の記事のキモであり主張の核でもある。)

 

なんといっても私が注目しているキモは、(逆説的だが)彼らは楽曲作りにおいてメッセージ性をあえて極力排することを核としている、という部分だ。
それは私がこのバンドを深く掘ってみたいと思った一因の1つでもある。

 

実は私は初めはこの「メッセージがない」というポイントに非常に違和感を覚えたことを記憶している。
“Lesson”のようにドープで没入感の強い曲もあったかと思えば、
「4月のマーチ」のような「女の子らしさ」をそのままパッケージングしたような歌詞に、甘くキャッチーな歌メロとリフの印象が強く残る曲が唐突に現れたりと、
たしかにどちらも素晴らしく完成度の高い曲なのだが、

同じバンドが作った曲のように感じられない、バンドの「顔」がつかめない、という点が私の中でちょっとした混乱をきたし、

「この人たちは一体どういう人なんだ、何がしたいんだ」といった具合に、飲み込み切れなかったのだった。

しかしインタビューなどを紐解いていくうちに、この「メッセージがない」「つかみどころがない」というスタイルこそがある種のメッセージでもあるのでは、という逆説的な考えに至ったわけである。

 

 バンドを組むときに合言葉のように言っていたのは、とにかく暑苦しいのは嫌だねってこと。刹那的なものに対して、「カロリー重いよ」という思いは全員共通でありました*5

 歌詞や演奏で主張をし過ぎるようなバンドやアーティストがすごく多くて。それがトゥー・マッチに思えたんですね。*6

 歌詞に関しても、できるだけメッセージ性をなくして「音楽の力だけでアガろうよ」っていうものにしたかった。*7

 

など、かなり多くのインタビューで言及されている。


そしてなぜ、そういった意識がバンド内で醸成されていったのか、という点を紐解いていくと、
そこには彼らのもともといた彼らの言及する「下北沢のバンドシーン」とはオルタナティブな「バンド」というものへの在り方の提示という意味が浮かび上がってきた。

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ということで第1回はここまでにします。

続きは近々…。ちなみに全4回予定です。長すぎ!!笑

次回は「Awesome City Clubの冷めたアンチテーゼ」という観点を掘り下げようと思っています。

 

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 [参考にした記事一覧]※全4回予定の記事を通して

【インタビュー】
1
シティポップの新星 Awesome City Club 「36.5℃」の情熱に迫る
http://ro69.jp/feat/awesomecityclub_201504/page:1

2
大注目株Awesome City Clubが語る、新しい時代のバンド論
http://www.cinra.net/interview/201504-awesomecityclub

3
interview with Awesome City Club
“オーサム・シティ”のハイブリッド・ソウル
──Awesome City Club、インタヴュー
http://www.ele-king.net/interviews/004410/

4
Awesome City Club「オシャレで何が悪い」、メンバーが語るバンド誕生から “シティポップ”論まで
http://top.tsite.jp/news/i/23094689/

5
【インタビュー】Awesome City Club、“また変な曲出したな”と言われるようになったらうれしい『Awesome City Tracks』
http://www.barks.jp/news/?id=1000114517#utm_source=tw_BARKS_NEWS%26utm_medium=social%26utm_campaign=tw_auto

6
Awesome City Clubが明かす、バンドの成り立ちと活動ビジョン「ドカンと売れたら一番おもしろい」
http://realsound.jp/2015/04/post-2940.html

7
Awesome City Club SPECIAL INTERVIEW
http://accgov.net/talk/talk_1.html


【解説】
8
Awesome City Clubがデビュー作で提示する、“今の日本にしか生まれ得ない”音楽とは?
http://realsound.jp/2015/04/post-2953.html

9
Awesome City Clubインタビュー番外編 信じる音楽を広く届けるには
http://regista13.blog.fc2.com/blog-entry-166.html

10
2015年春のメジャーデビューアーティスト特集
http://natalie.mu/music/pp/majordebut_2015

【ライブレポ】
11
Awesome City Club、自主企画イベントで吉田ヨウヘイgroupらと共演 第二弾の開催も決定
http://realsound.jp/2015/04/post-2916.html

12
Awesome City Club、吉田ヨウヘイgroup&髭と祝った自主企画vol.1
http://natalie.mu/music/news/143124

 

 

 

 

*1:シティポップの新星 Awesome City Club 「36.5℃」の情熱に迫るhttp://ro69.jp/feat/awesomecityclub_201504/page:1

*2:Awesome City Club「オシャレで何が悪い」、メンバーが語るバンド誕生から “シティポップ”論まで
http://top.tsite.jp/news/i/23094689/

*3: 洋楽にあえて「」をつけているのは、洋楽という言葉がそもそも曖昧かつ恣意的な概念ではないかという主張からである。洋楽、という際には多くの日本人はアメリカ・イギリス(ヨーロッパ)のポップミュージックをイメージするのだろうが、実際その中でも様々なジャンルがあるだろうしあるいは上記の地域発ではない音楽も漠然と含意されてしまっている。本来は日本の音楽ではない音楽という意味しかないが各人がおのおのなんとなくイメージするものを託して「洋楽」と用いられるわけだが、そのようにブラックボックス的に使われることこそ、「洋楽」とい言葉の魅惑的な求心力の源泉になっているようにも思う。(ここをはっきりさせておかないといけないと思う。)

*4:2015年春のメジャーデビューアーティスト特集http://natalie.mu/music/pp/majordebut_2015

*5:大注目株Awesome City Clubが語る、新しい時代のバンド論http://www.cinra.net/interview/201504-awesomecityclub

*6:interview with Awesome City Club“オーサム・シティ”のハイブリッド・ソウル──Awesome City Club、インタヴューhttp://www.ele-king.net/interviews/004410/

*7:Awesome City Clubが明かす、バンドの成り立ちと活動ビジョン「ドカンと売れたら一番おもしろい」http://realsound.jp/2015/04/post-2940.html