週末ひとりけんきゅうしつ

つれづれなるままにひぐらし音楽と社会をながめる人のひとりごと。(もはや週末関係ない)

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ROTH BART BARONは音楽の未来を“取り戻す”ー小さな巨人たちへの5つのまなざし(4)

4.プロモーション:新しさと戯れるオープンな好奇心

 ROTH BART BARONは、そのフォーキーなスタイルゆえに極めて牧歌的でトラッドなバンドであるかのように見えるが、その実、はっきり言って、国内のどんなアーティストよりも「新しモノ好き」なバンドである。

特に、自分たちの音楽を届けていくにあたって、デジタルツールを活用することを惜しまない。

 

たとえば、2015年リリースのアルバム『ATOM』のリリース発表時には、彼らがレコーディングをしたモントリオールのスタジオでのセッション風景やレコーディング風景、その他、制作活動の様子を360°動画で収録したものを、いきなりオフィシャルサイト上に(しかも複数本)アップして、ファンを驚かせた。

 


Aluminium at RECORD STORE

 


SESSION1

 

また、ちょうど時を近くしてTwitterアカウントとの連携が容易な生配信アプリ“Periscope”が日本語に対応し始めた際には、早速そのPeriscopeで自身のライブの一部を生配信してみたりしているのも見かけた。

 

もちろん、360°動画やPeriscopeでの生配信は今でこそよく見られるようにはなってきたものの、当時2015年~16年初頭にかけては一般的な認知もそこまで高くなかったことを記憶している。ましてやその頃、国内のアーティストでそれをプロモーションにここまで積極的に使用した例はほとんどなかったはずだ。

 

彼らの、新しいツールに対するそうした子どものように純粋で開かれた好奇心はそれだけでも彼らの寛容さを体現しているわけだが、さらに言ってしまえば、そうした新しいものに対するアンテナの高さこそが彼らが他の多くの国内アーティストと一線を画す部分でもある。

 

それは、ストリーミング配信(特にオンデマンドのサブスクリプション配信)に対する姿勢ひとつとっても明らかだ。多くの国内のアーティスト、あるいはプロダクション・レーベル等にとってはやはりまだまだサブスクはネガティブな存在であることは想像に難くないわけだが、そうした国内の状況とは正反対に、ROTH BART BARONはそもそも日本に上陸する以前から自身の作品をSpotifyで配信していた。

 

Spotifyは海外では名刺代わりだ」と言い、世界中の誰しもに向けて自分たちの作品を届けようとするアグレッシブな姿勢は、日本という狭い範囲に留まらずしっかりと海の向こうの今のスタンダード、すなわち、音楽のリリースの仕方がすでにほとんどストリーミングに移行してしまっている潮流にも目を向けていることの表れであり、清々しいほどのオープンな精神に裏付けられたものだ。それは、昨今のメジャーアーティストにどことなく感じてしまう、すでに付いているファンを囲い込んでそこからできるだけむしり取ろうというような、世の中との「閉じた」関わり方とは、全く相反するものでもあるのではないだろうか。

(もちろんサブスクでの配信に否定的なアーティストは、彼らにとって、言ってみれば、より「ワリのいい」何よりも大切な収入源であるCD販売を守ろうと必死なのであって、彼らの抵抗感を一概に否定することは、筆者にも到底できないのだが。)

 

realsound.jp〔下記は上記事からの引用〕

三船:イギリス人の友人から聞くだけでも、バンドはCDを作らないし、ヴァイナルを出さないとバンドじゃないと言いますし。基本的にはヴァイナルでシングルを出して、アルバムをリリースして、そのあとにシングルカットしますよね。あとは基本的にストリーミング主導みたいです。

 

中原:一緒に共演した海外のバンドは、二言目に「君たちのSpotifyアカウントを教えてくれ」と言って来ますし、もはや名刺代わりのようなものですよね。それがないと話にならないくらい。家に招待してくれた友人も、リビングでSpotifyを経由して音楽を流していたりと、向こうでは生活の一部になっています。

 

たとえば仮にApple Musicで楽曲を配信していたとして、“Connect”で情報を発信したことのある国内のアーティストがどれだけいるだろうか。あるいは、クラウドファンディングにチャレンジするアーティストがここ数年でどれだけ増えただろう。もちろんROTH BART BARONはそのいずれもすでにチャレンジしている。

 

クラウドファンディングの資金を持っての渡英中は、(スタッフからではあるが)毎週のように支援者にイギリスでの活動の様子を写真たっぷりのメールで伝えてもくれていた。

これは実際、支援者のひとりとして、平日の朝方に届くこのメールを読みながら通勤したりするのが純粋に楽しかった。

 

一部のアーティスト(特に国内のアーティスト)は、楽曲を作りライブをするという制作・演奏の面には当然長けている反面、デジタルテクノロジーのトレンドについては多くのレイトマジョリティーと大差ないと思えることがしばしばある。一般的に言って、誰よりも「新しさ」に挑戦していくことが仕事であるはずのアーティストという職業の人々こそ、新しいツール=道具に誰よりも慎重になってしまってはいないだろうか……

 

 もちろんそういった慎重さには「ビジネス的なジャッジゆえ」という側面もあるだろう。そこに異論はない。

 

それでも、そうした一部のアーティストになくて、ROTH BART BARONにあるのは、「うまくいかなくても、続かなくても、まずは新しいものを誰よりも早くキャッチして、面白がって使ってみる」という新奇性と創造性なのであって、それはいたって単純だがしかし、それこそがアーティストという生き物の衝動の根幹にも通ずるところなのでもあるだろう。

 

少なくとも、ROTH BART BARONは、そういった意味では本当に瞬発力に長けたエキサイティングなバンドであり、そして同時に、アーティストの本質というものを、自らを実験台に体現しようという、粋なバンドなのだ。

 

ROTH BART BARONは音楽の未来を“取り戻す”ー小さな巨人たちへの5つのまなざし(3)

 

3.ステージ:日常の延長の祝祭

彼らのライブを観たことがある人は気づくだろう、彼らのステージでは、原色の照明があまり使われないことに。

代わりに、彼らは白熱球のような光のオーナメントを持ち込んで、ステージを、時には客席までもをクリスマスの家々のように飾りつけている。

f:id:seaweedme:20170604135225j:plain画像引用元:

ROTH BART BARON on Twitter: "BEAR NIGHTにご来場頂いた皆さんありがとうございました。🐻🐻🐻
Merry Christmas & Happy new year
#bearnight #rothbartbaron https://t.co/RJn417AUIs"

 

ライブマーケットはこの2017年においてもまだ、いや、ますます、肥大化している。

豪華さと大きさがあたかもアーティストの価値や評価になってしまったかのような今この時代に、彼らはあえて派手さや過剰さを抑え、自らの手で創る可愛らしく素朴であたたかな空間をステージにしてしまうのだ。

 

 たぶん、そんな彼らが誰よりも知っているのは、祝祭の本当の意味についてだ。

 

このシリーズの1.で取り上げたように、メンバー/サポートメンバーたちは実際のライブでも、オーソドックスなギター・ベース・ドラムといった楽器以外に、三船が集めた珍しいものも含め、様々な楽器を楽曲ごとに縦横無尽に持ち替えて演奏する。その幅は広く、筆者の観た中では、フィドル、ミュージカル・ソー(ノコギリ)や和太鼓なんかまであった。

 

固定された1つの楽器をメンバーに割り当てるという今日一般的なポップミュージックのライブとは趣を異にするそうした無邪気な楽器との接し方からは、先に述べた音楽的探究という意味合いだけでなく、土着の祭りのような様相

ーー訓練された“特別な人”の演奏を観客が見守る、というかたちではなく、そこに参加する普通の民衆、その誰もが代わる代わる弾き歌い踊るような祝祭のあり方ーーを連想させられる。

 

とはいえ考えてみれば、日々感ずるところを弾き歌う、それがブルースやあるいはフォークの根本でもあったのではないだろうか??

であるならば、そうしたルーツを色濃く受けている彼らのライブは、祝祭でもあると同時に、誰しもの日常に向けてもまた、開かれているはずだ。だからこそ、彼らのステージの演出や装飾、照明は、どこをとってもいたって素朴で等身大、で良いのだ。

 

そういえば、ライブというのはハレの舞台だけれど、そもそも「ハレ」は、「ケ」と切り離せない表裏一体の産物でもある。ハレはケに裏打ちされて存在するのだ。日常が良いものになるよう祈りを込めて執り行われるものだからこそ、「祝祭」というものの本当の意味もまた、日常の延長線上に在るーー

 

彼らのライブを観ると、まるで逆立ちしたかのようにそんな本来的な概念にいつも立ち戻されて、ある意味とても新鮮な驚きに毎回感嘆させられたりする。

 

 

様々な楽器を組み合わせた肉体的な響きにみなぎる彼らのライブの高揚感は圧倒的だが、特にダイナミックなパートへ縺れ込む時には、彼らは観客を煽るような仕草を見せることもしばしば。

ただ彼らのそれが他のロックバンドと違うのは、場を盛り上げるために画一的な「ノリ」を無理に引き出そうという意図によるものではなく、ライブに静かに見入っている観客をすら、我を忘れて各々の思うままに自由に、その高揚感に身を委ねてもいいのだと導くためのものであるということ。*1

 

そしてそのクライマックスこそが、彼らのライブでいつも決まって最後にアンプラグドで演奏され、観客も巻き込んで、そこにいる全員で歌われる曲、「アルミニウム」なのだ。

 

印象的なシーンがある。昨年末、彼らの自主企画であるイベント“BEAR NIGHT”のラストの「アルミニウム」で、ドラムの中原がフロアに降り、観客の後ろで、ステージの三船と向かい合いながら、持ち出したフロアタムを叩くという場面があったのだが、

 

 その瞬間。

 

ステージとフロアのメンバーに挟まれた観客は、もはや「観客」ではなかった。

我々観客が、その空間を共に創る一員として彼らに迎えられたことに、その光景を見て気づかされた。そう、そこでは、演者/観客という二項対立は、取り払われてしまった。

 

クラシックのコンサートのように、ステージと観客とが明確に区別され、演者が一様に同じ方向を向き、演目を静かに見入る(魅入る)ことが観客のマナーである、という様式が60年代後半頃にポピュラーミュージック(ダンスミュージックは除く)に持ち込まれたという通説*2を仮に前提にするならば、

ROTH BART BARONのライブはその二項対立が生じる以前の、演者と観客の境界が曖昧だった祝祭空間に私たちを連れ戻す本能的なエネルギーに満ち溢れたものだとも言える。

 

彼らのライブにはそういった意味でのプリミティブな祝祭性もまた、宿っているように感じられてならない。

 

彼らの曲に「Campfire」という曲がある。

まさに、キャンプファイヤーの大きく燃えさかる炎を囲んで歌を歌い踊りまわる時に奏でられる音楽のように、彼らのライブは名もなき民衆の高揚の中心で歌われ奏でられる、紛れもないフォークミュージックだ。

 


ROTH BART BARON -"Campfire"

*1:とはいうものの、やはり彼らのライブに来るような日本のインディーロックファンは周りの目を気にして静かに見入るタイプの観客が多いためか、煽られてもなかなか堅く大人しいままのことも多く、彼ら自身やりづらそうな表情を浮かべる瞬間を見かけるときもある。その歯がゆさこそが、今回筆者がこの文を書く動機にもなったのだが・・・各々が高揚した感情を思い切って自由にリアクションして構わないのではないだろうか?その光景こそが、彼らROTH BART BARONが見たい光景なのではないだろうか?などと筆者は勝手に思っている。

*2:ビートルズがライブ活動をやめてレコーディング活動に専念するようになって以降、ロックミュージックは「論ずる対象」となりそのライブは、長らく、「鑑賞する」対象であり続けた、ともされる(南田勝也『オルタナティブロックの社会学』(花伝社)pp.132-133 などに詳しい)。90年代以降その観念は氷解していくわけだけれど、やはり今でも、そうした「録音物の再現/上演」と「それを観察する観客」という二項対立の形式に基づく発想は未だに「ライブ」という概念に根強く存在しているように思われてならない。

ROTH BART BARONは音楽の未来を“取り戻す”ー小さな巨人たちへの5つのまなざし(2)

 

2.歌詞:誰でもあり、誰でもない。「われわれ」による「われわれ」のための音楽

 

ROTH BART BARONの歌詞は、寓話的と言われることが多い。 

 

だが実際には、よく見てみると日常のささいな一瞬をつまびらかに描く部分も、結構多いのだ。

特にアルバム『ROTH BART BARONの氷河期』では「顔を洗って/カーテンを開け」*1ると、「洗濯物がはため」*2き、私たちの何気ない生活がそこで繰り返されていることが強調される。

 

ーーかと思った瞬間、突然に視点が俯瞰に変わり、壊れてしまった世界が映し出される。そこに暮らす「僕」の氷のように透明で壊れそうな純粋さの上には、戦闘機が飛んでいる。

 

ミクロとマクロを、自由に、ダイナミックに行き来する歌詞。そうやって、なんともない私たちのこの身近な生活が、今にも崩れそうな世界の隅々につながっているかもしれないことを、無邪気に、時に残酷に見せつけるように。

 

『ROTH BART BARONの氷河期』の3曲目に収められている「氷河期#3」の副題は“Twenty four eyes / alumite”。学校に持って行く弁当箱が「アルマイト」でないことが恥ずかしい、などといったごくありふれた悩みを抱えながら、他方、戦争への機運が高まる時世の波や貧しさに呑まれていった子どもたちを描いた『二十四の瞳』のことを指している。壺井栄が『二十四の瞳』で滲ませる、世の中の流れに巻き込まれながら懸命に日常を生きようとする、そんなちっぽけな存在である人間への慈しみのような感情は、確かにROTH BART BRONの歌詞にも通底しているように感じ取れる。

彼らが歌い上げるのは、壊れてしまった世界で、それでもしぶとく力強く生活を繰り返し続ける、人間の生への愛なのだ。

 

彼らの描く、その「壊れてしまった世界」のイメージはまるでディストピア小説のような近未来のような趣きもある。その証拠に、直近作『ATOM』では、もっと直接的にSF的なモチーフもたびたび登場するようになっている。が、その彼らの描く近未来は、輝かしくカッコイイ未来ではないどころか、場所も時間軸が曖昧だ。ピカピカ輝くネオンや立派なビル。それ以外に、時代や場所を特定するような言葉は何一つなく、彼らの目を通したそれらはまるで古いSF映画で見た、架空の張りぼてのようなのだ。

しかし、だからだろうか、彼らが『ATOM』で描いているそれらは、とても普遍的なモチーフにも感じられる。

  

ATOM』で描かれているのは、まるで「ファミリーレストラン」(「bIg HOPe」)や「高層ビル」(「Metropolis」)のある平凡な僕と君の街を作っているのが、“大人たちの欺瞞”であることを知ってしまったかのような子どもたちの純粋さゆえの、破壊衝動や逃避への夢のようだ。しかし、彼らの描く古いSF映画のような張りぼては、その極めて平均化された景色ゆえに、そうした子どもたちの(あるいは子どもの心を持つすべて大人たちの)破壊衝動や逃避願望が、どんな時代・場所にも潜む宿命のようにも思えてくる。

 

そこが、彼らの歌詞が寓話的なSFであると言われる所以なのだろう。つまり、彼らの歌詞が寓話的なのは、どこまでも普遍的だからなのだ。

 

だから、ROTH BART BARONの歌詞は「僕」が「君」に投げかけるかたちをとっていることが多いけれど、「君」は特定の誰かだけを指しているわけではないのだろう。男なのか女なのか、それすら曖昧なファルセットで歌われるその歌詞の内容は、誰のことでもないようでいて、だからこそ、すべての人間のことであるかのように響いている。

 

 

2015年10月21日、ちょうど『ATOM』が発売されたその日は、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」の、デロリアンの行き先であった「未来」が「現在の日付」に追いついた日だった。だからではないが、『ATOM』の歌詞を読んでいつも思い浮かべるのは、「過去から見た未来」としての「今」のイメージでもある。

 

彼らの歌は、特定の誰かのためではない、過去を、今を、そしてこれからを生きる、すべての人間に向けられた、「われわれ」の歌なのだ。

 

 

ATOM [Analog]

ATOM [Analog]

 

 

   

*1:「氷河期#1(The Ice Age)」/『ROTH BART BARONの氷河期』(2014/9/24 発売) より

*2:「春と灰(Ashspring)」/『ROTH BART BARONの氷河期』(2014/9/24 発売) より

ROTH BART BARONは音楽の未来を“取り戻す”ー小さな巨人たちへの5つのまなざし(1)

1.音楽性:音楽の未来を切り拓く、ルーツと実験精神の調和

 

ROTH BART BARONはフォークロックバンドである。

 

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出典:ROTHBARTBARON.COM より

 

彼らをたとえるとき、多くの場合は、WilcoやFleet Foxes、また、Bon IverやGrizzly Bearといった、アメリカのフォークロック系のアーティストの名前が挙がることが多いが、それは単にフォークロックだから、という理由以上の意味合い、すなわち、トラッドな音楽への愛だけでなく、それとは相対するような実験精神との調和を目指している、その姿勢における共通性も大きいだろう。

 

ROTH BART BARONは、2人組でありながらサポートミュージシャンを交え、アコースティックギターを主軸に多種多様な楽器を使うのが大きな特徴だ。おもちゃのように楽器と戯れ、そうした身体的な試行錯誤で創り出した音を、生演奏にこだわって、録音をし、ライブをする。だからこそ、彼らの楽曲は、静と動のうねりが本当に自然に描き出されている。その躍動感やダイナミックさが彼らの大きな魅力だ。

 

彼らの楽曲と楽器の関係についてさらに掘り下げてみよう。

 

そもそも、フロントマンの三船の音色に対する執着は尋常なものではなく、ライブでも見かける「ハルモニウム」をはじめ世界中の珍しい楽器を取り寄せては蒐集し、実際に楽曲制作に取り入れている。彼にとって、ゼロから音色を作り組み合わせていくことが、すなわち楽曲を仕立てていくということなのかもしれない、とも思わされるほど。

 

また、アコースティックなイメージの強いバンドではありながら、シンセサイザーの電子音もふんだんに用いているのも彼らの面白いところだ。最近でも、KORG社のバックアップで、“KORG SESSION”と称したシンセサイザーでのライブセッションを行っていたのは、彼らの中でも特筆すべき活動のひとつ。

 


"Glassshower" KORG SESSION

 


KORG SESSION -FILM-

 

普段の彼らのライブや楽曲はシンセサイザーに特化しているわけではないけれど、このイベントからうかがえるのは、彼らにとってシンセサイザーという楽器もまた、アイデンティティのひとつだということだ。シンセサイザー(特にアナログの)は本来的に、信号を組み合わせて音色を創り出すがための楽器なわけだが、フロントマン・三船の音楽活動の出発点が、ヘッドホンをマイク代わりに録ってみる、テープを逆再生してみる、といった、手を動かしながら試行錯誤しておかしなサウンドを作っては宅録していたというところからだったことを鑑みても、ROTH BART BARONのサウンドの根底には、まさにDIYで音色を生み出す実験的な姿勢が流れていると言えそうだ。

 

あえて変わった機材の使い方をして、ハプニングを楽しむことや、それによって新たな音を発見しようとすること。

そして、ルーツミュージックにそれらを組み合わせ、新たな音楽を創り出そうとすること。

 

そうした実験性は斬新なものに見えこそすれその実、壊れたギターアンプからたまたま歪んだ音が出たことでロックミュージックが始まったように、新たな音楽が生まれる糸口にもなり得る。私たちはそのことを忘れてはいないだろうか。

つまり、彼らは新しい音楽を、とてもプリミティブであり真摯な方法で、手に入れようとしているのだ。

ROTH BART BARONは音楽の未来を“取り戻す”ー小さな巨人たちへの5つのまなざし

 

ROTH BART BARONは、東京出身、2人組フォークロックバンド。

 

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出典:ROTH BART BARON (ロットバルトバロン) | felicity (フェリシティ)

 

彼らは、東京出身といえども、スタイリッシュにキメてるわけでもなければ、小洒落てイケてる風を装うわけでもない。

 

彼らの音楽もまた、決して前衛的なわけでもなければ攻撃的でもない。

ただとても素朴にあたたかに紡がれる彼らの音楽は、しかし、どこまでも伸びやかで、そして力強い。

 

彼らを知ったきっかけははっきりとは思い出せないが、少なくとも、初めて見た動画は「小さな巨人」のMVだったと思う。

 


ROTH BART BARON -"小さな巨人"

壮大で高揚感溢れる豊かなバンドアンサンブル、そしてなにより、シルキーで神秘的、それでいて大平原の真ん中に立ったかのような心地にさせられる開放的なファルセットから真っ先に思い起こしたのはもちろん、Bon Iver。

日本にもこんな歌を歌えるアーティストがいるなんて、というのが第一印象ではあったけれど、初めて彼らのライブを観終わった時、その印象とはまた違う手応えを感じていた。彼らは巷にいくらでもいるような、ただただグッドミュージックを鳴らすだけで満足している、「いい子ちゃん、だけど退屈」なバンドの類ではないということがはっきりとわかったからだ。

そのことが筆者にとってはなによりも興奮する発見であったし、そういうバンドが日本にもちゃんといることが、心から嬉しかったことを覚えている。

 

彼らをなによりも特別な存在にするのは、表現というものを、しなやかに、大胆に、捉え直そうという彼らの姿勢なのだ。

 

 

そんな彼らの表現は、とても新しい。

けれども同時に気づかされる。とても原初的でもあると。

そして、彼らの音楽・作品・表現は、想像力と創造力で、私たちに音楽のあり方についていつも投げかけてくる。

 

 

ただ、彼らはそれをプロパガンダとしてはっきり発信するわけではない(それだから私は好きなのだが)。

であるがゆえに、彼らのそういった音楽活動に対する姿勢がいかに特異であり、そして真摯であるかがリスナーに伝わりきっていないのではないだろうか、というわだかまりを、筆者は彼らを知ってからずっと、抱き続けてきた…

 

 

さて、彼らはちょうどまさに今、昨年末から実施していたクラウドファンディングのアイディアを具現化すべくイギリスに渡り、ヨーロッパでの活動を始動させようとしているところ。私ももちろん、支援しましたし、彼らのこれからの活動には本当にワクワクしています。

だからこそ、このタイミングに改めて、この一見ただの素朴なインディーズバンドのひとつに見える彼らの存在が、実は今、他のどのアーティストよりもエキサイティングであることを見つめ直し、伝えたいーー

そんな思いから、これから数回、おそらく数週間に分けて、この“エキサイティング”という意味、それは「ROTH BART BARONは音楽の未来を“取り戻そう”としている」という意味であることを、このブログ記事のシリーズを通じて、5つの観点(音楽性・歌詞・ステージ・プロモーション・作品の「かたち」)から、筆者なりにつらつらと綴っていこうと思っています。

 

ROTH BART BARON一介のインディーズバンドでありながらも、音楽の「過去のかたち」を継承し、その上で「未来」に勇敢に立ち向かおうとする、まさに「小さな巨人」。その意味が、今、1人でも多くの人に伝わってくれれば本望なのです。

 

それでは、少々長くなりますが、これから数回の更新をお待ちください!

 

▼アップ済み記事

17/5/14更新

1.音楽性:音楽の未来を切り拓く、ルーツと実験精神の調和

seaweedme.hatenablog.com

 

17/5/28更新 

2.歌詞:誰でもあり、誰でもない。「われわれ」による「われわれ」のための音楽

seaweedme.hatenablog.com

  

17/6/5更新 

3.ステージ:日常の延長の祝祭

seaweedme.hatenablog.com

 

My Best Album 30 in 2016、やってみました。

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個人的な今年1年を振り返りつつ、初めて今年は、あくまで主観ですが、年間ベストアルバムの選盤にチャレンジしてみようと思います。 

 

「ベスト決められるほど新譜を聴いてないよ・・・」 と、去年まではやりたくてもなかなかできなかった年間ベストですが、

今年は良い出会いもたくさんあり、自分にとって新しい音楽に触れようという意識を習慣づけることができて、個人ベストを選べる程度には、一応成長しました。。

フィジカルは少なくとも新譜・旧譜含め月2〜3枚程度は買っていたように思いますが(それでも少ない)やはりApple MusicやSpotifyを使いこなせるようになってきたのは大きくて、

その分結果的に洋楽の方をより多く聴くようになったのでした。

 

その中でも、これまで、ブラックミュージックはほとんど通ってこなかった私にすら、今年はその重要性というのは無視できるものではないことが十分伝わってきた年でした。

そういう意味でも個人的には、自然と聴く音楽の幅が広がっていったのがなによりも変化だったなと思います。

と言いつつ、カニエも、チャンス・ザ・ラッパーも…聴いてはいるのですが、、、

いかんせん私がヒップホップの背景について詳しくないので順位をつける上で評価が下せず、個人ベストという意味も強いので、あえて今回は外しました…。。。

 

客観的に選ぶと多くの公のメディアと結局一緒になってしまって面白くないし、個のリアリティがない。

かといって、完全に好みだけで選んでしまって読み手にとって意味をなさないだろうな、という懸念がある。

なので、ちゃんとその間をとったベストにすべく、ざっくりと線引きを設けてみました。

 

自分がしっかりと聴いたお気に入りの作品を前提として、「ジャンルや人種のクロスオーバー」が意識されているもの、または音楽的な挑戦が感じられた作品(前作や過去作に比べた変化も含む)

※例外もあり

 

「こいつは、こういう視点で聴いていた、こんなのが好きな奴なんだな」

というのを、わかっていただけたら最高です。

仮に番号を振っていますが、あまり厳密な順位付けではありません。

客観的な総評をベースに個人的な重要度に傾斜をかけた結果という感じです。

 

 

1.Bon Iver/22, a million

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これまでのソロ作品のフォーキーで壮大な美しさを残しながら、カニエとのコラボレーションなどを経て辿り着いた、デジタルクワイアーや大胆に歪ませた楽器、声のサンプリングふんだんに取り入れた、誰も聴いたこともない音像。彼ーージャスティン・ヴァーノンがそのように今作で表現するカオスと優しさは、まるで混迷を極める世界の中で、その世界と自分との折り合いをつけるかのような試みなのではないだろうか。曲名だけでなく、アートワークやブックレットに施された意味深な数字的な意匠、記号や象徴(アイコン)は、彼がそうやって世界を微分した先に見た真理なのかもしれない。

 

 2.Angel Olsen/My Woman

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シカゴのシンガーソングライター、エンジェル・オルセンの3作目。どうもハマりまくってしまい、今年1番聴いたかもしれません。

各メディアで軒並み高順位をかっさらっている彼女の評価されるところはその大胆なビブラートを生かした豊潤な歌声、というのがまず第一。と、言いつつ曲そのものはスタンダード。けれど、スタンダードポップスといえど、ビーチボーイズのような60年代風からストレートなロックに加え、シンセ中心の幻想的なものまで、今作の楽曲はそのアレンジの多彩さが素晴らしい。そして、一見ごく当たり前のラヴソングに見えて、諦念と哲学的な趣きのある文学的な歌詞がそこに乗っかり、聴く人に愛の形を問いただすのである。『MY WOMAN』はそんな彼女の総合的な力量が結実した充実の作品。

 

3. D.A.N./D.A.N.

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バンドがエレクトロニックミュージックをやろうとすると、まずバンドサウンドありき、その上に電子音を乗せて・・・という順序にどうしてもなりがちなのではないか、と密かに思っているのだが、彼らは全く逆。一度全てをバラバラにしてから組み直すようにして空白の美学を創り上げている(ように思われる)のが、日本のバンドシーンにおいて極めて特異で画期的。というか本当は、バンドという括りに置いておくべきでもない。クラブミュージックとの接点を、「キツさ」を削ぎ落とした、音のレンジの狭いメロウなサウンドにしっかりと引き込んでいく点に彼らの存在の重要性があるのだと思う。

ミニマルでありながら、歌がとてもメロディアスでついつい口ずさみたくなるところや、何層にも重ねたミルフィーユのような音の質感に尋常ではないこだわりが感じられ、聴いていて飽きない仕上がりになっている。本当に何度も聴きました。

 

リリースライブのレポートはこちらを。 

seaweedme.hatenablog.com

 

4.宇多田ヒカル/Fantome

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 宇多田ヒカルはもちろんデビューの頃から知っているけれど、その頃は私はかなり幼かったのもあり、日本のポピュラー音楽にとって何を成し遂げた人なのか?ということについてあまり意識をしたことがなかった。幼かった自分にとっては彼女の存在があまりに当たり前だったからだ。

 

8年間の不在を経てリリースされた今作は、彼女自身の母との関係と喪失を描いた作品になっているのは周知の通りだけれども、母の喪失という具体的な事象だけにとどまらない、大切な人を失ったことのあるすべての人に響く丁寧な言葉の連なりが印象的だった。そういう普遍性を持った作品でもありつつ、全体を通して彼女のルーツであるR&Bを土台に歌がくっきりと浮かび上がるクリアでタフな音づくりが透徹されていて、改めて彼女のサウンドプロダクションにおける非凡さというものをも意識することのできた作品でもあった。

 

5.Warpaint/Heads Up

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私の大好きなWARPAINT、待望の3作目ということで上位に持ってきました。

 

曲調もバラエティ豊かに、ダンサブルでオープンな印象にガラッと変わった3作目。コラージュのような斬新な曲展開が新人とは思えなかったデビュー作、波のように微妙に変化し続けるミニマルな展開を突き詰めた前作を経て、構成の複雑さ斬新さを突き詰める実験的な手法にはもはや余裕を感じる。

そういう意味では、今作は、メンバー各自のソロや別プロジェクトを経ての結果なのか、音の立体感という点のほうに、より躍進が見られる。迫ってくるほど前面に出てくるファットなリズム隊に、空白をしっかり残しながら多種多様な音を、上下左右前後に配置して空間を構築する、透し彫りのような立体感に、ワクワクしっぱなしだった。

 

と、言いつつあまり年間ベストに上がってこないのは、そうした細やかな音づくりの手法に軸足が置かれている反面、暗澹とする世界情勢に対するリアクションとしての作品が目立った今年の流れの中では、メッセージ性に欠けていたからかもしれない。あまり深く考えずに、その時の気分をそのままアウトプットしてしまう身軽さは彼女たちの魅力ではあるのだけれど。

 

でも、2月の来日公演は今から楽しみすぎます!

 

6.Beyonce/LEMONADE

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言わずもがなですが、、、

自分自身に関する表象が核にありながらも、人種もジャンルも多様なアーティストとのコラボレーション、その結果としての振れ幅の大きな楽曲、それらを大衆性をもったものとして聴き得る作品に仕立てた、申し分のない「ポピュラーミュージック」としての強度には、ビヨンセとちゃんと向き合ったことのない私ですら「アーティスト」ビヨンセを意識せざるを得ませんでした。

 

7.Frank Ocean/Blonde

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そもそも彼に興味を抱いたのはリリース時に発表された、彼の手記の生々しくパーソナルな言葉に、やられたのがきっかけでもありました。

そうした告白めいた内容だけでなく、サウンドの面でも、様々な白人インディーロックやエレクトロニカ周辺のアーティストも客演していることもあってか、これまでヒップホップを聴いてこなかった私にとっても実は耳馴染みが良く、この作品が私にとっては今年、ヒップホップに目を向けるようになったきっかけになってくれました。

 

8.Radiohead/A Moon Shaped Pool

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レディオヘッドは実はそこまで熱心なファンではなかったりするのですが、オーケストレーションやアコースティックな響きの美しさが印象的で、今作はよく聴きました。

今にして思うと、"A Moon Shaped Pool"という言葉は、心にぽっかりあいた穴のような空虚、という意味合いが悲しくもしっくりきます。

 

9.OGRE YOU ASSHOLE/ハンドルを離す前に

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余計なものをそぎ落とし、終始淡々としたトーンのまま終わってしまう彼らの作品の不思議な心地よさは、濃厚すぎるグルーヴとコーラスワークにあるのではないかと思わされた。

音数は少なくスカスカなのに、コードや同じ効果音がひたすらずっと鳴っている感じがミツメの『A Long Day』と近しいところもある気がする。D.A.N.もそうだが、今日、日本に新しいロックのかたちというものを求めるとするならば、こうした、ビートに軸足を置いた極端なミニマリズムに、かろうじてその芽を見出すことができるのかもしれない。

 

…などと冷静ぶって書いていますが、このスカスカなのにメロウで骨太という不思議なバランスに、私、すっかり中毒になってしまいました。『フォグランプ』の頃にハマりかけてしかし結局ハマらずに大人になってしまった自分、あの頃はまだ若かったな…

 

10.Solange/A Seat at the Table 

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ビヨンセより、個人的には、柔らかな声と音づくりを徹底するソランジュの方が好みではありました。

インディーロック〜フォークから、チルウェイブなど(EDMではない)エレクトロミュージックがこれまでの守備範囲だった私自身と、R&Bの交点として、気に入った作品。

 

11. A Tribe Called Quest/We got it from Here... Thank You 4 Your service

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ceroの『Obscure Ride』が出た時に盛んに引き合いに出されていたこともあって、メンバーが1人亡くなってしまっている中での、今の、そして最後の彼らを聴けるということで期待していました。ヒップホップに留まらず、ネオ・ソウル風に聴こえる部分もあって、カッコよかった!

 

12.agraph/the shader

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レイ・ハラカミのような人懐っこい音でストーリーを情感たっぷりに描くイメージのあったagraphが、ミュージックコンクレートを思わせる手法で、まるで自然現象のように、ただそこで音楽が鳴っていることだけを追求したことが圧巻。メロディにもリズムにも寄り付かない作風は、日本のエレクトロニカアーティストでは稀有。

彼も今作で『22, a million』のような数学的な意匠を部分的に用いていて、ボン・イヴェールのほうでも書いたように、それは世界を解するための普遍的なキーなのかもしれないと改めて思う。

 

agraphこと、牛尾憲輔に関しては、映画「聲の形」のサントラも非常に良かった。ノイズまじりの汚れた音を汚いまま録り切ることによって、「にじみ」の質感を聴覚において再現する、という共感覚的な離れ業には、この『the shader』の制作過程が存分に生かされていると言って間違いはないはず。

 

今作については前の記事にも書いていますのでご覧ください。

seaweedme.hatenablog.com

 

13.KOHH/DIRTⅡ

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刺青だらけの身体というだけでセンセーショナルな彼だが、あの、そのまま口語のような言葉遣いの不思議なリリックが違和感なくフローに乗っかっていくというだけで、彼がそもそも恐ろしく上手いラッパーであるということを、思い知らされる。きちんとライムとして成立しているのに、むき出しのままの言葉で殴りかかってくるというあの感覚は、KOHHにしか成し得ないのかもれない。

 

14.Seiho/Collapse

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ロマンティシズムという言葉で形容されがちなSeihoだけども、彼の作品はどちらかというと、シュルレアリスムだと思う。ジャケットの写真もよく見ると、本物の生花と比べてなにかが違う。本物の日本ではなく、あくまで外国人が想起するような「日本っぽい」というイメージでしかない(そもそも右に置いてある置物はなんなんだ)。つまり、彼が、あの磨き上げられた濁りの一切ない音で描き出す世界には実体はなく、多分に記号的なのだ。

そんなデフォルメと記号性に満ちた世界観は、記憶や思い出までも、あらゆるものがヴァーチャル世界で記号やシグナルに置き換わったに未来を暗示するかのよう。

 

そういう意味では、agraphの『the shader』が同じく一気に抽象性の高い作品に振り切った点では共通しているにもかかわらず、汚い音で現実の自然現象や世界観をそのまま写し取った作品であることと、この作品が全く対の関係をなしているのが面白い。

「世界の捉え方」という観点を軸に、両者が逆のアウトプットに行き着いたことが、今年らしい必然性なのかもしれない。

 

15.Savages/Adore Life

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前作に比べて、野蛮さだけでなく、どことなく知性が滲み出ているところが最高にクール。こういう女性アーティストが、日本にいてほしい。

 

16.Francis and the Lights/Farewell, Starlite!

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Bon Iverの『22, a million』で使われているヴォーカルハーモナイザー(プリスマイザー)"Messina"を開発したのがこのフランシス・フェアウェル・スターライトということらしく(『22, a million』のブックレットにエクスマキナにかけてか"Ex Messina"という手書き文字がある)、1曲目は出だしからすでにヴォーカルのエフェクトやシンセの一音一音が多層的にきらめき揺らぐ。SFのような遠い未来でR&Bを聴いたらこんな感じだろうか。

 

17.The Lemon Twigs/Do Hollywood

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なかなか強引でおかしなことをやっているのに、エネルギーで押し切ってしまう若さゆえの無鉄砲さ。けれどそういう破壊的な挑戦によって、ポップミュージックのあらゆるジャンルのフォーマットは開拓されてきたのかもしれない。そういう無限の可能性を感じます。

 

18.Whitney/Light Upon the Lake

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カントリー〜フォークロックをベースにしたアメリカーナポップスではあるけれど、ヴォーカルのハイトーンな歌声や、全体的な音づくりにおいても柔らかなコットンのような質感が保たれていて、カントリーの域に留まらない心地よいグッドミュージック。そしてさりげないながらも、静と動の側面が、1曲の中で、また、アルバム通してきっちり繰り広げられていて、曲・アルバムの構成力の高さがうかがえる作品。

 

19.KING/We Are King

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コクトーツインズなどにも影響を受けた幻想的なR&B。ありそうでなかった。この作品もジャンルを超えたクロスオーバーという観点で入れてみました。

私は聴くと心地よくていつも寝てしまいます。

 

20.Terrace Martin/VELVET PORTRAITS

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ケンドリック・ラマーの『To Pimp A Butterfly』にも大きく貢献したプロデューサー、サックスプレイヤー(など)、テラス・マーティンのソロ作品。ヒップホップとLAジャズを行き来する重要人物というだけあって、客演も豪華であるだけでなく、あらゆるブラックミュージックを呑み込んで、それをポップスとして昇華させる手腕が見事で、ブラックミュージックをあまり通ってきていない私でも、本当に、単純に良質なポップスとして繰り返し楽しんで聴いていました。

と、言いつつやはり、彼のケンドリック・ラマーへの貢献や、ヒップホップやソウル、ファンクなどを取り入れた新しいジャズの盛り上がりについてはやはり去年のトピックという感があってか、メディアの今年のベストにはあまり挙がってきていない。2015年の集大成として、意味のある作品ではあるはず。(去年出ていれば・・・)

 

21.Yumi Zouma/Yoncalla

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前作までのEP2作は、フレンチポップのような淡くキュートなメロディに引っ張られていたものの(実際はニュージーランドのバンドで歌詞も英語なのにエセフランス語っぽく聴こえる瞬間があるのは意図的なのか・・・?)、オーソドックスな四つ打ちと比較的のっぺりとした音づくりのせいか、良く言えば懐かしいが、悪く言えばいなたいドリームポップの域を抜け出ていなかったYumi Zouma。

今作は、丸っこく粒立ちした音がミニマルに使われているだけでなく、リズムのバックビート感がかなり意識されていて、劇的に立体感が進化したのに驚いた。またメロディの上品さはそのままに透明感を増したウィスパーヴォイスもより洗練されていて、耳に残る。

少し前にドリームポップにハマっていた私としては、逆にある時期から、ドリームポップの陥る没個性に一気に辟易してしまっていたのだが、その中では、このバンドはきちんと独自のスタイルを確立しつつある珍しい例だと思う。

 

22.Jack Garratt/Phase

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フジロックに来ていたの知りませんでした。

後半ダレるのが残念ですが、「Breath Life」がとにかく好き。

 

23.ミツメ/A Long Day

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互いの間を縫うように、コードを鳴らし続ける、輪郭のはっきりした2本のギターの音の絡み合い。その危ういバランスの真ん中に、凜と筋を通すような川辺素のヴォーカルの涼やかさに改めて脱帽。

 

24.yahyel/Flesh and Blood

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Spotifyをシャッフルで聴いていたら洋楽に混じって「Once」が流れて、一瞬、yahyelだと気付かなかった私。英語だとかいう以前に、シンセの音の厚みに、それこそFrancis and the Lightsなどと一緒にシャッフルで聴いても断絶を感じさせない質感を再現できているところがまず評価されるべきなのだろう。

 

25.toddle/Vacantly

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田渕ひさ子、ギターはキレキレなのに、歌がへたうまというアンバランスさにむしろ妙な味みたいなところはあったけれども、この5年間にソロや他プロジェクトを経て、今作はソングライティングとヴォーカルがぐっとたくましくなっていた。ブッチャーズ吉村の魂はここに引き継がれていたのだ。

 

下記記事で詳しく書いています。 

seaweedme.hatenablog.com

  

26.Galileo Galilei/Sea and The Darkness

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ガリレオ・ガリレイは正直自分の好みでは元々なかったのですが、ひょんなことでこのラストアルバムを聴いたところ、初期の頃に抱いていたイメージと違う印象を抱いて驚いたので入れてみました。
もうあとちょっとで、いやもうすでに少し汚れてしまったかもしれない、少年性の「こわれやすさ」をギリギリのところで切り取ったような…そんな奇跡的な瞬間を閉じ込めた作品。だからこそ、その中でも1番なんでもないシンプルなポップソング「ユニーク」が、何よりも愛おしい。

 

27.tortoise/The Catastrophist

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メロディのキャッチーさ、ジャジーなアプローチなど取り入れつつ、短尺の曲でまとめた作品。トータスの難解さが苦手な人にも今作は比較的わかりやすいんじゃないでしょうか…

フジロックでライブは、それはそれでプログレッシヴで圧巻でしたが。あの時間、ベックじゃなくてトータスを観てた人は変態です(私も)。

 

28.Stephen Steinbrink/Anagrams

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アコースティックな楽曲も素敵ですが、インディーオルタナロック女子として青春を生きてしまった私の胸を、懐かしさが掴んで離さないのは、甘く歪んだギターがノスタルジックなM3「Psychic Daydream」。

 

29.METAFIVE/META

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しっかり踊らせるテクノなのに、ちゃんと歌モノなのがさすが。LEO今井の暑苦しい歌がこんなに爽やかに聴こえるなんて…彼のヴォーカリストとして力量にも気付かされました。そして小山田圭吾のギターの上手いのなんの。

 

30.きのこ帝国/愛のゆくえ

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「東京」あたりのポップ転向で興味を失っていた、典型的な元ファンの私。そんな私でも今回の彼らのさらなる変貌は「進化」であると讃えたい。

 

今作の白眉は「MOON WALK」〜「夏の影」の流れと言って過言ではないはず。レゲエ〜ダブに振り切った音づくりが、初期のシューゲイザー風の楽曲と、このところの優しいグッドポップ路線の交点としてここまで機能するとは。言うなれば、初期作「渦になる」のエモーションをその名の通り、攪拌して、その上澄みをすくい上げたような淡さと純度。それが胸を打つ。

「夏の影」はもろにレゲエビートだけれど、「MOON WALK」の間奏での歌声のイコライジングを大胆に振り切ってみたりする遊びだけでなく、ダビーで雲に包まれるような音作りなどはまるでフィッシュマンズ

最初期にどこかのライターさんが佐藤千亜妃の声は佐藤伸治を彷彿とさせる、と指摘してたのはある意味すごい先見の明だったんだな…と。確かに。彼女の声はダブにもよくマッチするのだなあ。

 ただ、ギターソロ、特にアウトロに持ってくるそれがちょっとそろそろワンパターンなので、次作はその変化も期待したいところ。

 

 

以上!

正味2〜3日で書いたのでコメントが雑ですがとりあえず年内に完成できてよかった!

田渕ひさ子という「シンガーソングライター」(toddle/Vacantlyのちょっとしたレビュー)

先週末になりますが、toddleのインストアライブを見てまいりました@タワー新宿。

 

アコースティックセットでのtoddleとしてのライブは5年ぶり(つまり前作リリース時の同じインストアライブ)とのこと。

あのいわゆる「田渕ひさ子的」なキレキレの轟音ギターとは似つかないたいへんピースフルなミニライブで。

お客さんとメンバーの微妙にぎこちない緊張感と距離感もまた一興

 

と言いつつ、やっぱりひさ子さんのギターはエレアコなのにジャキッとバキッとした音がするのはやっぱりあの独特なストロークの当て方かなあと思いながら、元ひさ子フォロワー女子的にはガン見してしまいました。。

  

実のところ私は、普段バンドでやっているアーティストのアコースティックセットってあんまり面白く思えないタイプだったりもするのですが、

今回、アコースティックで聴いて改めて認識しました、今回のアルバムの楽曲は、アコースティックアレンジに違和感のないとても柔らかなものが多いんですね。

それは、アレンジが、ということではなくて、メロディラインやコーラスワークがそうさせているように思います。

 

一度、ひさ子さんのアコースティックのソロの弾き語りを観たこともありますが、

その時観たのと同じように、以前のtoddleの印象と違って歌が柔らかくなってらっしゃいます。

 

 

メロディの力が楽曲を引っ張れる、そんな変化が今作にはあった。

ということ。

 

田渕ひさ子という「シンガーソングライター」 

Vacantly

Vacantly

 

 

toddle5年ぶり4枚目のアルバム『Vacantly』。

 

まず、ドラマーがこの5年の途中で変わっており、リズムは抑揚を効かせた細やかに弾むようなスタイルから一変、タイトなパワードラムにシフトしているものの、躍動感という点では相変わらずの路線。

 

むしろ今回大きな変化があったのはメロディの存在感。

特に歌の旋律は、これまでになく豊かで多彩な表情を見せてくれている。

 

toddleのこれまでの3作は、bloodthirsty butchers吉村秀樹がプロデュースを務めた作品だった。周知の通り、彼を喪ったことは日本のロックミュージック界にとってももちろんだが、とりわけ、toddle、そしてリーダー田渕ひさ子にとってはより一層大きな影を落としたにちがいない。

 

その別れは、もともとマイペースに活動してきたtoddleの足を止め、それゆえ前作から5年というブランクを必要とさせた一つの理由でもあるだろうがその一方で、ブッチャーズでの活動が必然的にほぼなくなった田渕ひさ子の活動の幅を広げることにも、結果的にはつながっていったように思う。

 

LAMAKoji Nakamuraのバンドへのメンバーとしての参加、SPANK PAGEBase Ball Bearといった他バンドのサポート、吉澤嘉代子黒木渚タルトタタンといった女性シンガーやユニットのバックバンド、変わり種で言えばagraphこと牛尾憲輔の手がけたアニメ「ピンポン」の劇伴への参加、といった「ギタリスト」としての数々のコラボレーション。

そして忘れてはいけないのが、本人名義のソロでの活動であるアコースティックギターの弾き語り。

 

特に、弾き語りについてはライブだけでなく手売りEPも自ら完成させて販売しており、ここに注力することができるようになったのはとても大きな変化だったように思える。

オファーがあって「ギタリスト」として仕事を受けるのとは違い、本人名義で自ら曲を書きギターを弾きシンガーソングライターとして歌う、というのは自らの意思がないと成り立たないだけでなく、toddleに直結する活動でもあるのだから。

 

はじめに書いたように、今作の楽曲のメロディラインは動きも豊かでカラフル。堅いストレートなロック、といった印象の強かった1stアルバム『I dedicate D chord』の時から比べると、今作では歌のメロディへ大きく軸足を動かしたことは歴然だ。

それはやはり「歌を作る」ことに純粋に焦点が絞られる弾き語りというスタイルの活動を通じて、彼女の「ソングライター」としての技量がぐっと高まったことが大きかったのだと思う。

 

また今作では田渕ひさ子のギターの代名詞である切り裂くような攻撃的な歪みは影を潜めている反面、彼女のギターのもう一つの魅力である、芯が太くエッジーで、それでいて伸びやかで艶っぽい一面を聴くことができ、それがまたメロディを引き立たせることに非常に貢献している。

 

さらに、そうしたメロディに寄り添うように、以前は硬さのあった歌声も随分と優しく柔らかく、「弾き語り的」になった。

随所に影や寂しさをにじませる歌詞は、曖昧にぼかすような表現と訥々とした語り口でありながらも、パートナーを喪うという経験を経た後の彼女自身の言葉であると思うとやはり生々しく感じられる。

自分の言葉で自分の歌を照れ無く表現していくという意思が田渕ひさ子に一層強く現れるようになった変化にはどうにも、遠くから彼女の背中をそっと押す吉村が遺した魂が見え隠れしているような気がしてならない。・・・なんと切なく温かい変化だろうか。

 

 

エッジの効いたサウンドとあくまでポップで柔らかな歌メロ、そして寂しげでどこまでもやさしい歌。

それは、言ってみれば、太陽の照りつける夏の昼下がりの甘く切ないノスタルジーのよう。

 

そんな情景がよく似合う、「シンガーソングライター」田渕ひさ子の創り出すtoddleというスタイルが、今、ゆっくりと、はっきりと見えてきた。

名前の付けられない温かくてちょっとだけ苦い感情がじんわりと訪れる、素敵なアルバムです。