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ROTH BART BARONは音楽の未来を“取り戻す”ー小さな巨人たちへの5つのまなざし(5)-2

5.作品の「かたち」:「音楽」のかたちの未来(後編)

 

ROTH BART BARONは、楽曲や音源のかたちをイチから捉え直そうと模索しながら、ここ数年のうちに一気に加速した音楽の聴き方の地殻変動が生み出した新しい視聴習慣にむけて誰よりも積極的にアウトプットを試みているバンドであることは、ここまでですでに伝わっているだろう。

 

何度も言うようだが、彼らにとって「作品」は、音源パッケージだけを指すわけではないということなのだ。

そして、その思想が、目に見える一つの塊として我々にはっきりと提示されたのが、昨年末のバンドの主催イベント《BEAR NIGHT》だ。

 


BEAR NIGHT - digest - Dec 20th 2016

 

 

その日リキッドルームに一歩踏み入れ、目の前の階段を上がったその先がこちら。

 

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筆者撮影

 

クリスマスが近かったということもあってか、おなじみのロゴマークとクマが赤と緑で刷られたポスターが目に飛び込む。奥へ進んだ2階スペースには、三船本人が来場者と対面しながらサーブするコーヒースタンド、メンバーの考えたフードの販売、といったブースが設けられ、ライブだけでなくそこで思い思いに過ごすことができるようなムードができあがっていた。

 

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▲会場で販売していたフード(筆者撮影)

 

 

その横では、彼らのお気に入りのレコードを壁一面に並べて、それらに一つ一つ自分たちでコメントを綴った帯をつけて紹介。そこでそのまま買うこともできた。

そこは自分たちがどんなものに影響されてきたかというプレゼンテーションでありながら、他のアーティストの作品への彼らの深い愛情とリスペクトを感じられる暖かなスペースで、中でも筆者もじっくり足を止めたスペースだった。

 

f:id:seaweedme:20170528175151p:plain出典:http://www.rothbartbaron.com/

▲パッと見える範囲でもウィルコ、カレン・ダルトンニュートラル・ミルク・ホテル、ホイットニー、カート・ヴァイルなどルーツ・ミュージックやフォークを下敷きにしたアーティストから、ジェイミー・エックス・エックス、セイント・ヴィンセントなどエレクトロニックな志向のジャンルまで幅広い。レコード一つ一つに選盤の理由が付されていて興味深かった。

 

 

当日は彼ら自身のライブ以外にもゲストのライブのタイムテーブルも組まれていた。リキッドルームという空間を自由に行き来しながらその雰囲気全体を楽しめる仕掛けだったのだろう。

 

もちろん彼ら自身のライブも素晴らしい出来だった。

初の9人編成で様々な楽器を駆使した演奏は、普段のライブでは再現できていない部分まで含め音源で聴いていた通りの、いや、音源には無いバイオリンや打楽器のアレンジも加わったことでさらに厚みと深みを増し、(奏者が前後横二列に並んでいた視覚的な効果もあってか)オーケストラのような圧倒的な華やかさがあった。

また普段のライブでは代わる代わる弾かれる(あるいは無い場合もある)ベースが全編通して演奏されていたのもこれまでと大きく違うところで、地をうねるようなベースのグルーヴが、まるでクマのような大きな生き物がそこに立っているかのような生命力を楽曲に吹き込む、重要な役割を果たしていたのが印象的だった。

普段はじっと聴き入るようにして大人しいタイプであるこのバンドのファンたちも、ライブが進むにつれて控えめながらも身体を揺らし始め、いつになく力強い演奏にいつの間にか熱い声援で応えていた。平日とあって観客こそ少なめではあったものの、今まで観た中でも1番と言っていいほどエネルギーに満ち溢れていたライブを創り上げたこの日のメンバーの顔は、晴れやかで誇らしげに見えた。

 

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 筆者撮影

 

www.youtube.com

▲1時間46分にわたる当日のライブがフル尺で公式にアップされていますので気になるなる方はぜひ。

しかしライブをフル尺でアップするアーティストなんて日本にはほとんどいないのでは…やっぱりロットは攻めまくってます。

 

バンドの企画するイベントというと、どんなに本人がコンセプチュアルにブッキングしたつもりであれ、観客にしてみれば結局のところ、単なる対バンイベントを超える意義を感じられるものは、正直言って稀だ。

 

対して、この《BEAR NIGHT》は、ライブだけ観て何かが伝わるという性格ではなく、彼らが創り出したパーツひとつひとつが、きちんと彼らがこれまで育み培ってきたことを表現し、そしてその上で、彼らのやりたかった編成でのライブを演るというものだった。

そんなライブには余計な説教じみたMCなんて必要なかったし、実際そんなものはなかった。ただ彼らの充実した顔つきが物語っていた。それだけで、十分だった。

 

言葉ではない。説教でもない。バンドの「全身」を使った表現であること。

その「場」そのものだけがメッセージを物語っていたからこそ、そのイベントは“ROTH BART BARON”という作品になり得ていたのだ。

 

 

さらにバンドはその直後、ヨーロッパでの活動のためのクラウドファンディングを開始。

 

これは楽曲やプロダクトを作るための資金調達ではなく、活動プランのアイディアを実現するためのものなのだそうで、それもまた彼ららしい面白いところだ。

新しモノ好きな彼らにしては手を出すのが遅いようには思ったけれど、「イギリス・ヨーロッパにアプローチするためのマテリアルを作成して、ツアーの可能性やサポートしてくれるレーベルを探す足がかりとなる、プロモーションから始める」というのだから、その分、彼ららしいチャレンジングな内容にもなっている。

 

※なお現状、EP盤の最終的な完成には時間がかかっている模様。「UKでの活動」という流動的なプロジェクト内容であったからこその、良き誤算だろう。

camp-fire.jp

 

この、「活動プラン全体を一緒に楽しもう」といった趣旨(彼らはクラウドファンディングを「お祭り」と表現していた)にも彼らの「作品」観を見ることができるだろう。

 

例えば、ミュージシャンのクラウドファンディングには、何かを作るためのプロジェクトを用意しリターンとしてその商品を届ける、というように、言ってしまえば結局は単なる売買とあまり変わりないような使い方、あるいは、「資金を出してくれたお礼にバンドメンバーと遊べる」といった上から目線というのだろうか、ファンサービスの“押し付け”(またはあからさまな客集め)のようなリターン…といった内容のプロジェクトが多い。

しかし、それだけでは、今一歩、新奇性に欠けている。

 

そんな状況に、少々興ざめしていたところだったが、今回のROTH BART BARONのプロジェクトのリターンに用意されているものは、ほとんどがその資金を元手にしたヨーロッパでの活動を通じた、様々な成果物だ。

 

つまり、ここでは「活動そのもの」が一種の彼らの作品なのだ。ヨーロッパの多くの著名なアーティストを手掛けるプロデューサーやアートディレクターを起用した作品を制作し支援者に届けてくれるのだから、とてもワクワクするし、もし成功すれば活動に賛同したことを誇りに思える。そしてそこに、単なる物の売買を超えた、アーティストとリスナーの「関係のかたち」を生み出すことさえできるだろう。

 

やってみて面白いなと思ったのは「アルバムを作ります!」という単発のプロダクトへの投資ではなく、形のない音楽ーーつまり信頼の置きにくいものを提示しているものの、実際は7インチもMVも、うまくいけばドキュメンタリーも手元に届くし、人によってはそれを一緒に見ることもできる。ある意味ボックスセットのようなパッケージングがされていて、新しい発売方法に思えてきたんですよね。

(中略)

もちろんCDはすごい発明だと思ったし、僕も小さいときからすごく馴染んできたものなのですけど、不都合になってきたり、どんどん主流ではなくなっているということは肌で感じていて。だからこそ、自分たちの音楽をそれぞれの形で聴けるようにミュージシャンが用意する必要はあるし、あえて制限することでプレミアムにする方法もあると思う。僕らは、2017年も引き続きいろんな可能性にトライしていきたいんですよ。

なぜROTH BART BARONはUKに挑むのか 「今、何かが起きてるのはヨーロッパなんだ」 | Real Sound|リアルサウンド より三船の発言を抜粋)

 

 

作品の、そして音楽の「新しいすがた」。

今回のイベントやクラウドファンディングを通じて、ROTH BART BARONはそれを我々に投げかけ続けている。

 

アウトプットするものがすべて、表現であるように。

彼らはその意味を今の時代の我々に問いかけ、作品のすがたを再定義する存在なのだ。

 

〔おわりに〕

これまで見てきたように、彼らは、実験精神を重んじ、最新の技術や音楽のフォーマットにも果敢に、そして無邪気に、チャレンジしていく。そういった点では、未来的なバンドでもある。

けれど同時に、その無邪気さも含め、彼らの中で前提にあるのは、音楽の根本のすがたやあり方に立ち戻ることだ。

 

すっかりフォーマット化されて忘れ去られてしまった音楽の本来のあり方を、現代の人々の音楽との関わり方やテクノロジーの変化の一歩先をいく形で、大胆に体現していく。それこそが彼らの活動に対する姿勢の最大の魅力であり、今、彼らが必要とされなければならないゆえんでもある。

 

CDを出す、ライブをする。その繰り返しの範囲に無意識に囚われてしまうことの、想像力のなんと狭いことか、というごく当たり前だけどずっと私たちが忘れていたことを、彼らの一挙手一投足は思い出させてくれる。

 

彼らの音楽のやり方は、とうに忘れ去られた「過去」でありながら、しかしそれこそがこの先の音楽のかたちの未来を照らし出しているのかもしれない。この記事を読んだ人にならその予感が伝わるはずだ。

 

そんなROTH BART BARONの活動がエキサイティングでなくて、一体他になにがあると言うのだろう?

 

 

これでこのシリーズはお終いです!

長々とかかってしまいましたが、お読みいただきありがとうございました!

ROTH BART BARONの活動が、今いかなる意義のあるものか、

この記事が多くの方のヒントに少しでもなれるならば嬉しいです

 

 

ROTH BART BARONは音楽の未来を“取り戻す”ー小さな巨人たちへの5つのまなざし(5)-1

5.作品の「かたち」:「音楽」のかたちの未来(前編)

 

ライブにライブグッズはつきものだ。

ライブが多くの人のレジャーとしてこれまで以上に市民権を得ている今、売る側にとってはグッズはまさに打ち出の小槌と言っても良いのかもしれない。

 

けれど、果たしてスーベニア以上の価値のあるグッズがどれだけあるだろうか?

 

一瞬の非日常に舞い上がっているところにつけ込んだ旅先のちゃちなお土産品、としてではなく、グッズですらも自身の表現の媒体になり得るはずーー

 

 

ROTH BART BARONの作り出すものにはそんな挑戦心を感じることが多い。

 

 

たとえば、グッズ、あるいはそれに留まらず、彼らがアウトプットするもののいずれにも同じシンボルをあしらうことにもその意図が見て取れる。

 

クリスタルパレスにヘラジカの角を乗せたバンドのロゴマーク。あるいは、三船のお気に入りの同じクマのイラスト。それらがあらゆるグッズやそのグッズを入れる袋、ポスターなど随所に、ブランドのロゴマークのように刻印されている。

ただそれだけのことではあるけれど、それでも、そこに彼らのアイデンティティや透徹した哲学を感じさせるのには十分だ。それだけで、これまで述べてきたような、彼らの一貫した世界観に、彼らの創り出すものひとつひとつがすべて帰結していくように感じられる。

 

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▲Tシャツやパーカーのタグ(写真はパーカー)

 

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▲グッズのロゴバッジ(グッズを買うとロゴ入りの袋に入れてくれる)

 

音源やパッケージだけが、もはや作品ではない。 この1、2年の間、彼らは本当にそのことに意識的だった。なによりも「売り物」になる新曲を、CDでもなければ配信でもないかたちで発表し始めたのだ。

KORG SESSIONでは、Tシャツに、金沢でのイベントでは、マスコットのオーナメントに、それぞれ楽曲のデジタル音源のDLコードを付けて販売したのだ。

 

そして、その極めつけは、「Swimming Pool」という新曲を手作りのオルゴールとして発売したことだろう。

 

まだ誰も聴いたことのない新曲を、CDでもレコードでも、ましてや配信でもない媒体で、しかも演奏を録音した音源ではなく、オルゴールの音色で発表するというのには、正直ぶったまげてしまった。

もちろん、このオルゴールにもやはり音源のDLコードは付いている。しかし、すでにある音源やライブの音源、あるいは、新曲であっても他の手段や媒体(CDやサブスク、iTunes等での配信販売)で手に入れることのできるものをDLコードとしてグッズと併せ売りするやり口はいくらでもあるが、まだ誰も聴いたことのない新曲の発表の媒体として用いるというのはあまり聞いたことがない。

 

 

さらに、この時、あくまでこのオルゴールを指して「オルゴールシングル」という形態の「新曲」である(つまりDLコードはオマケ)と言い切ったのは、本当に潔かった。

たとえば、オルゴールとDLコードという組み合わせの全く同じものを販売するのであれば、「オルゴールというアーティストグッズに新曲のDLコードが付いています」という、告知の仕方もできたはず。

しかし、そうしていたらこの場合、全然、意味がなかったはずだ。

スーベニアとして安易に売りさばこうというものではなく、あくまで「新曲の媒体としてのオルゴール」だからこそ、楽曲そのものをして、「モノ」として長く付き合える対象にせしめることができるのだから。

 

※なおこの「Swimming Pool」は上記のオルゴールを初販売した限定イベント《Swimming Pool》(4.24 2016@VACANT)のティーザーとして視聴可能、またその際のライヴ映像として、公開されています。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

 

それだけではない。

このオルゴールからは、「音楽を発表する」という行為とは、規格化されたフォーマットを使った“録音物”として発表するものだ、という概念をもすっかり相対化してしまえるという、劇的なメッセージを読み取ることもできてしまう。

レコードという録音パッケージのフォーマットが歴史に登場した100年ほど前よりも以前は、楽曲は楽譜のかたちで複製されていたわけだが、

彼らが新曲「Swimming Pool」を発表する媒体に、録音パッケージではなく、オルゴールという、レバーをくるくると回しながら専用の譜面を送って奏でるこの原始的な「楽器」を選んだ、ということは、その事実を思い起こさせる。

 

つまりこのオルゴールは、現代を生きている我々が、楽曲とは、CDであれ配信であれ、ニアリーイコール「録音された媒体」だとつい当たり前のように認識してしまいがちな、発想力の狭さを突きつけると同時に、

彼らがそうした固定観念に常に意識的であり、本当に自由で柔軟な想像力でもってその壁を壊そうとしていることも教えてくれているのだ。

 

 

ROTH BART BARONは、音楽の聴かれ方が全くもって激変していこうというこの時代に、楽曲や音源のかたちを一から捉え直そうと模索して、「作品」の定義をも揺るがそうとしている。

 

 

ROTH BART BARONは音楽の未来を“取り戻す”ー小さな巨人たちへの5つのまなざし(4)

4.プロモーション:新しさと戯れるオープンな好奇心

 ROTH BART BARONは、そのフォーキーなスタイルゆえに極めて牧歌的でトラッドなバンドであるかのように見えるが、その実、はっきり言って、国内のどんなアーティストよりも「新しモノ好き」なバンドである。

特に、自分たちの音楽を届けていくにあたって、デジタルツールを活用することを惜しまない。

 

たとえば、2015年リリースのアルバム『ATOM』のリリース発表時には、彼らがレコーディングをしたモントリオールのスタジオでのセッション風景やレコーディング風景、その他、制作活動の様子を360°動画で収録したものを、いきなりオフィシャルサイト上に(しかも複数本)アップして、ファンを驚かせた。

 


Aluminium at RECORD STORE

 


SESSION1

 

また、ちょうど時を近くしてTwitterアカウントとの連携が容易な生配信アプリ“Periscope”が日本語に対応し始めた際には、早速そのPeriscopeで自身のライブの一部を生配信してみたりしているのも見かけた。

 

もちろん、360°動画やPeriscopeでの生配信は今でこそよく見られるようにはなってきたものの、当時2015年~16年初頭にかけては一般的な認知もそこまで高くなかったことを記憶している。ましてやその頃、国内のアーティストでそれをプロモーションにここまで積極的に使用した例はほとんどなかったはずだ。

 

彼らの、新しいツールに対するそうした子どものように純粋で開かれた好奇心はそれだけでも彼らの寛容さを体現しているわけだが、さらに言ってしまえば、そうした新しいものに対するアンテナの高さこそが彼らが他の多くの国内アーティストと一線を画す部分でもある。

 

それは、ストリーミング配信(特にオンデマンドのサブスクリプション配信)に対する姿勢ひとつとっても明らかだ。多くの国内のアーティスト、あるいはプロダクション・レーベル等にとってはやはりまだまだサブスクはネガティブな存在であることは想像に難くないわけだが、そうした国内の状況とは正反対に、ROTH BART BARONはそもそも日本に上陸する以前から自身の作品をSpotifyで配信していた。

 

Spotifyは海外では名刺代わりだ」と言い、世界中の誰しもに向けて自分たちの作品を届けようとするアグレッシブな姿勢は、日本という狭い範囲に留まらずしっかりと海の向こうの今のスタンダード、すなわち、音楽のリリースの仕方がすでにほとんどストリーミングに移行してしまっている潮流にも目を向けていることの表れであり、清々しいほどのオープンな精神に裏付けられたものだ。それは、昨今のメジャーアーティストにどことなく感じてしまう、すでに付いているファンを囲い込んでそこからできるだけむしり取ろうというような、世の中との「閉じた」関わり方とは、全く相反するものでもあるのではないだろうか。

(もちろんサブスクでの配信に否定的なアーティストは、彼らにとって、言ってみれば、より「ワリのいい」何よりも大切な収入源であるCD販売を守ろうと必死なのであって、彼らの抵抗感を一概に否定することは、筆者にも到底できないのだが。)

 

realsound.jp〔下記は上記事からの引用〕

三船:イギリス人の友人から聞くだけでも、バンドはCDを作らないし、ヴァイナルを出さないとバンドじゃないと言いますし。基本的にはヴァイナルでシングルを出して、アルバムをリリースして、そのあとにシングルカットしますよね。あとは基本的にストリーミング主導みたいです。

 

中原:一緒に共演した海外のバンドは、二言目に「君たちのSpotifyアカウントを教えてくれ」と言って来ますし、もはや名刺代わりのようなものですよね。それがないと話にならないくらい。家に招待してくれた友人も、リビングでSpotifyを経由して音楽を流していたりと、向こうでは生活の一部になっています。

 

たとえば仮にApple Musicで楽曲を配信していたとして、“Connect”で情報を発信したことのある国内のアーティストがどれだけいるだろうか。あるいは、クラウドファンディングにチャレンジするアーティストがここ数年でどれだけ増えただろう。もちろんROTH BART BARONはそのいずれもすでにチャレンジしている。

 

クラウドファンディングの資金を持っての渡英中は、(スタッフからではあるが)毎週のように支援者にイギリスでの活動の様子を写真たっぷりのメールで伝えてもくれていた。

これは実際、支援者のひとりとして、平日の朝方に届くこのメールを読みながら通勤したりするのが純粋に楽しかった。

 

一部のアーティスト(特に国内のアーティスト)は、楽曲を作りライブをするという制作・演奏の面には当然長けている反面、デジタルテクノロジーのトレンドについては多くのレイトマジョリティーと大差ないと思えることがしばしばある。一般的に言って、誰よりも「新しさ」に挑戦していくことが仕事であるはずのアーティストという職業の人々こそ、新しいツール=道具に誰よりも慎重になってしまってはいないだろうか……

 

 もちろんそういった慎重さには「ビジネス的なジャッジゆえ」という側面もあるだろう。そこに異論はない。

 

それでも、そうした一部のアーティストになくて、ROTH BART BARONにあるのは、「うまくいかなくても、続かなくても、まずは新しいものを誰よりも早くキャッチして、面白がって使ってみる」という新奇性と創造性なのであって、それはいたって単純だがしかし、それこそがアーティストという生き物の衝動の根幹にも通ずるところなのでもあるだろう。

 

少なくとも、ROTH BART BARONは、そういった意味では本当に瞬発力に長けたエキサイティングなバンドであり、そして同時に、アーティストの本質というものを、自らを実験台に体現しようという、粋なバンドなのだ。

 

ROTH BART BARONは音楽の未来を“取り戻す”ー小さな巨人たちへの5つのまなざし(3)

 

3.ステージ:日常の延長の祝祭

彼らのライブを観たことがある人は気づくだろう、彼らのステージでは、原色の照明があまり使われないことに。

代わりに、彼らは白熱球のような光のオーナメントを持ち込んで、ステージを、時には客席までもをクリスマスの家々のように飾りつけている。

f:id:seaweedme:20170604135225j:plain画像引用元:

ROTH BART BARON on Twitter: "BEAR NIGHTにご来場頂いた皆さんありがとうございました。🐻🐻🐻
Merry Christmas & Happy new year
#bearnight #rothbartbaron https://t.co/RJn417AUIs"

 

ライブマーケットはこの2017年においてもまだ、いや、ますます、肥大化している。

豪華さと大きさがあたかもアーティストの価値や評価になってしまったかのような今この時代に、彼らはあえて派手さや過剰さを抑え、自らの手で創る可愛らしく素朴であたたかな空間をステージにしてしまうのだ。

 

 たぶん、そんな彼らが誰よりも知っているのは、祝祭の本当の意味についてだ。

 

このシリーズの1.で取り上げたように、メンバー/サポートメンバーたちは実際のライブでも、オーソドックスなギター・ベース・ドラムといった楽器以外に、三船が集めた珍しいものも含め、様々な楽器を楽曲ごとに縦横無尽に持ち替えて演奏する。その幅は広く、筆者の観た中では、フィドル、ミュージカル・ソー(ノコギリ)や和太鼓なんかまであった。

 

固定された1つの楽器をメンバーに割り当てるという今日一般的なポップミュージックのライブとは趣を異にするそうした無邪気な楽器との接し方からは、先に述べた音楽的探究という意味合いだけでなく、土着の祭りのような様相

ーー訓練された“特別な人”の演奏を観客が見守る、というかたちではなく、そこに参加する普通の民衆、その誰もが代わる代わる弾き歌い踊るような祝祭のあり方ーーを連想させられる。

 

とはいえ考えてみれば、日々感ずるところを弾き歌う、それがブルースやあるいはフォークの根本でもあったのではないだろうか??

であるならば、そうしたルーツを色濃く受けている彼らのライブは、祝祭でもあると同時に、誰しもの日常に向けてもまた、開かれているはずだ。だからこそ、彼らのステージの演出や装飾、照明は、どこをとってもいたって素朴で等身大、で良いのだ。

 

そういえば、ライブというのはハレの舞台だけれど、そもそも「ハレ」は、「ケ」と切り離せない表裏一体の産物でもある。ハレはケに裏打ちされて存在するのだ。日常が良いものになるよう祈りを込めて執り行われるものだからこそ、「祝祭」というものの本当の意味もまた、日常の延長線上に在るーー

 

彼らのライブを観ると、まるで逆立ちしたかのようにそんな本来的な概念にいつも立ち戻されて、ある意味とても新鮮な驚きに毎回感嘆させられたりする。

 

 

様々な楽器を組み合わせた肉体的な響きにみなぎる彼らのライブの高揚感は圧倒的だが、特にダイナミックなパートへ縺れ込む時には、彼らは観客を煽るような仕草を見せることもしばしば。

ただ彼らのそれが他のロックバンドと違うのは、場を盛り上げるために画一的な「ノリ」を無理に引き出そうという意図によるものではなく、ライブに静かに見入っている観客をすら、我を忘れて各々の思うままに自由に、その高揚感に身を委ねてもいいのだと導くためのものであるということ。*1

 

そしてそのクライマックスこそが、彼らのライブでいつも決まって最後にアンプラグドで演奏され、観客も巻き込んで、そこにいる全員で歌われる曲、「アルミニウム」なのだ。

 

印象的なシーンがある。昨年末、彼らの自主企画であるイベント“BEAR NIGHT”のラストの「アルミニウム」で、ドラムの中原がフロアに降り、観客の後ろで、ステージの三船と向かい合いながら、持ち出したフロアタムを叩くという場面があったのだが、

 

 その瞬間。

 

ステージとフロアのメンバーに挟まれた観客は、もはや「観客」ではなかった。

我々観客が、その空間を共に創る一員として彼らに迎えられたことに、その光景を見て気づかされた。そう、そこでは、演者/観客という二項対立は、取り払われてしまった。

 

クラシックのコンサートのように、ステージと観客とが明確に区別され、演者が一様に同じ方向を向き、演目を静かに見入る(魅入る)ことが観客のマナーである、という様式が60年代後半頃にポピュラーミュージック(ダンスミュージックは除く)に持ち込まれたという通説*2を仮に前提にするならば、

ROTH BART BARONのライブはその二項対立が生じる以前の、演者と観客の境界が曖昧だった祝祭空間に私たちを連れ戻す本能的なエネルギーに満ち溢れたものだとも言える。

 

彼らのライブにはそういった意味でのプリミティブな祝祭性もまた、宿っているように感じられてならない。

 

彼らの曲に「Campfire」という曲がある。

まさに、キャンプファイヤーの大きく燃えさかる炎を囲んで歌を歌い踊りまわる時に奏でられる音楽のように、彼らのライブは名もなき民衆の高揚の中心で歌われ奏でられる、紛れもないフォークミュージックだ。

 


ROTH BART BARON -"Campfire"

*1:とはいうものの、やはり彼らのライブに来るような日本のインディーロックファンは周りの目を気にして静かに見入るタイプの観客が多いためか、煽られてもなかなか堅く大人しいままのことも多く、彼ら自身やりづらそうな表情を浮かべる瞬間を見かけるときもある。その歯がゆさこそが、今回筆者がこの文を書く動機にもなったのだが・・・各々が高揚した感情を思い切って自由にリアクションして構わないのではないだろうか?その光景こそが、彼らROTH BART BARONが見たい光景なのではないだろうか?などと筆者は勝手に思っている。

*2:ビートルズがライブ活動をやめてレコーディング活動に専念するようになって以降、ロックミュージックは「論ずる対象」となりそのライブは、長らく、「鑑賞する」対象であり続けた、ともされる(南田勝也『オルタナティブロックの社会学』(花伝社)pp.132-133 などに詳しい)。90年代以降その観念は氷解していくわけだけれど、やはり今でも、そうした「録音物の再現/上演」と「それを観察する観客」という二項対立の形式に基づく発想は未だに「ライブ」という概念に根強く存在しているように思われてならない。

ROTH BART BARONは音楽の未来を“取り戻す”ー小さな巨人たちへの5つのまなざし(2)

 

2.歌詞:誰でもあり、誰でもない。「われわれ」による「われわれ」のための音楽

 

ROTH BART BARONの歌詞は、寓話的と言われることが多い。 

 

だが実際には、よく見てみると日常のささいな一瞬をつまびらかに描く部分も、結構多いのだ。

特にアルバム『ROTH BART BARONの氷河期』では「顔を洗って/カーテンを開け」*1ると、「洗濯物がはため」*2き、私たちの何気ない生活がそこで繰り返されていることが強調される。

 

ーーかと思った瞬間、突然に視点が俯瞰に変わり、壊れてしまった世界が映し出される。そこに暮らす「僕」の氷のように透明で壊れそうな純粋さの上には、戦闘機が飛んでいる。

 

ミクロとマクロを、自由に、ダイナミックに行き来する歌詞。そうやって、なんともない私たちのこの身近な生活が、今にも崩れそうな世界の隅々につながっているかもしれないことを、無邪気に、時に残酷に見せつけるように。

 

『ROTH BART BARONの氷河期』の3曲目に収められている「氷河期#3」の副題は“Twenty four eyes / alumite”。学校に持って行く弁当箱が「アルマイト」でないことが恥ずかしい、などといったごくありふれた悩みを抱えながら、他方、戦争への機運が高まる時世の波や貧しさに呑まれていった子どもたちを描いた『二十四の瞳』のことを指している。壺井栄が『二十四の瞳』で滲ませる、世の中の流れに巻き込まれながら懸命に日常を生きようとする、そんなちっぽけな存在である人間への慈しみのような感情は、確かにROTH BART BRONの歌詞にも通底しているように感じ取れる。

彼らが歌い上げるのは、壊れてしまった世界で、それでもしぶとく力強く生活を繰り返し続ける、人間の生への愛なのだ。

 

彼らの描く、その「壊れてしまった世界」のイメージはまるでディストピア小説のような近未来のような趣きもある。その証拠に、直近作『ATOM』では、もっと直接的にSF的なモチーフもたびたび登場するようになっている。が、その彼らの描く近未来は、輝かしくカッコイイ未来ではないどころか、場所も時間軸が曖昧だ。ピカピカ輝くネオンや立派なビル。それ以外に、時代や場所を特定するような言葉は何一つなく、彼らの目を通したそれらはまるで古いSF映画で見た、架空の張りぼてのようなのだ。

しかし、だからだろうか、彼らが『ATOM』で描いているそれらは、とても普遍的なモチーフにも感じられる。

  

ATOM』で描かれているのは、まるで「ファミリーレストラン」(「bIg HOPe」)や「高層ビル」(「Metropolis」)のある平凡な僕と君の街を作っているのが、“大人たちの欺瞞”であることを知ってしまったかのような子どもたちの純粋さゆえの、破壊衝動や逃避への夢のようだ。しかし、彼らの描く古いSF映画のような張りぼては、その極めて平均化された景色ゆえに、そうした子どもたちの(あるいは子どもの心を持つすべて大人たちの)破壊衝動や逃避願望が、どんな時代・場所にも潜む宿命のようにも思えてくる。

 

そこが、彼らの歌詞が寓話的なSFであると言われる所以なのだろう。つまり、彼らの歌詞が寓話的なのは、どこまでも普遍的だからなのだ。

 

だから、ROTH BART BARONの歌詞は「僕」が「君」に投げかけるかたちをとっていることが多いけれど、「君」は特定の誰かだけを指しているわけではないのだろう。男なのか女なのか、それすら曖昧なファルセットで歌われるその歌詞の内容は、誰のことでもないようでいて、だからこそ、すべての人間のことであるかのように響いている。

 

 

2015年10月21日、ちょうど『ATOM』が発売されたその日は、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」の、デロリアンの行き先であった「未来」が「現在の日付」に追いついた日だった。だからではないが、『ATOM』の歌詞を読んでいつも思い浮かべるのは、「過去から見た未来」としての「今」のイメージでもある。

 

彼らの歌は、特定の誰かのためではない、過去を、今を、そしてこれからを生きる、すべての人間に向けられた、「われわれ」の歌なのだ。

 

 

ATOM [Analog]

ATOM [Analog]

 

 

   

*1:「氷河期#1(The Ice Age)」/『ROTH BART BARONの氷河期』(2014/9/24 発売) より

*2:「春と灰(Ashspring)」/『ROTH BART BARONの氷河期』(2014/9/24 発売) より

ROTH BART BARONは音楽の未来を“取り戻す”ー小さな巨人たちへの5つのまなざし(1)

1.音楽性:音楽の未来を切り拓く、ルーツと実験精神の調和

 

ROTH BART BARONはフォークロックバンドである。

 

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出典:ROTHBARTBARON.COM より

 

彼らをたとえるとき、多くの場合は、WilcoやFleet Foxes、また、Bon IverやGrizzly Bearといった、アメリカのフォークロック系のアーティストの名前が挙がることが多いが、それは単にフォークロックだから、という理由以上の意味合い、すなわち、トラッドな音楽への愛だけでなく、それとは相対するような実験精神との調和を目指している、その姿勢における共通性も大きいだろう。

 

ROTH BART BARONは、2人組でありながらサポートミュージシャンを交え、アコースティックギターを主軸に多種多様な楽器を使うのが大きな特徴だ。おもちゃのように楽器と戯れ、そうした身体的な試行錯誤で創り出した音を、生演奏にこだわって、録音をし、ライブをする。だからこそ、彼らの楽曲は、静と動のうねりが本当に自然に描き出されている。その躍動感やダイナミックさが彼らの大きな魅力だ。

 

彼らの楽曲と楽器の関係についてさらに掘り下げてみよう。

 

そもそも、フロントマンの三船の音色に対する執着は尋常なものではなく、ライブでも見かける「ハルモニウム」をはじめ世界中の珍しい楽器を取り寄せては蒐集し、実際に楽曲制作に取り入れている。彼にとって、ゼロから音色を作り組み合わせていくことが、すなわち楽曲を仕立てていくということなのかもしれない、とも思わされるほど。

 

また、アコースティックなイメージの強いバンドではありながら、シンセサイザーの電子音もふんだんに用いているのも彼らの面白いところだ。最近でも、KORG社のバックアップで、“KORG SESSION”と称したシンセサイザーでのライブセッションを行っていたのは、彼らの中でも特筆すべき活動のひとつ。

 


"Glassshower" KORG SESSION

 


KORG SESSION -FILM-

 

普段の彼らのライブや楽曲はシンセサイザーに特化しているわけではないけれど、このイベントからうかがえるのは、彼らにとってシンセサイザーという楽器もまた、アイデンティティのひとつだということだ。シンセサイザー(特にアナログの)は本来的に、信号を組み合わせて音色を創り出すがための楽器なわけだが、フロントマン・三船の音楽活動の出発点が、ヘッドホンをマイク代わりに録ってみる、テープを逆再生してみる、といった、手を動かしながら試行錯誤しておかしなサウンドを作っては宅録していたというところからだったことを鑑みても、ROTH BART BARONのサウンドの根底には、まさにDIYで音色を生み出す実験的な姿勢が流れていると言えそうだ。

 

あえて変わった機材の使い方をして、ハプニングを楽しむことや、それによって新たな音を発見しようとすること。

そして、ルーツミュージックにそれらを組み合わせ、新たな音楽を創り出そうとすること。

 

そうした実験性は斬新なものに見えこそすれその実、壊れたギターアンプからたまたま歪んだ音が出たことでロックミュージックが始まったように、新たな音楽が生まれる糸口にもなり得る。私たちはそのことを忘れてはいないだろうか。

つまり、彼らは新しい音楽を、とてもプリミティブであり真摯な方法で、手に入れようとしているのだ。

ROTH BART BARONは音楽の未来を“取り戻す”ー小さな巨人たちへの5つのまなざし

 

ROTH BART BARONは、東京出身、2人組フォークロックバンド。

 

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出典:ROTH BART BARON (ロットバルトバロン) | felicity (フェリシティ)

 

彼らは、東京出身といえども、スタイリッシュにキメてるわけでもなければ、小洒落てイケてる風を装うわけでもない。

 

彼らの音楽もまた、決して前衛的なわけでもなければ攻撃的でもない。

ただとても素朴にあたたかに紡がれる彼らの音楽は、しかし、どこまでも伸びやかで、そして力強い。

 

彼らを知ったきっかけははっきりとは思い出せないが、少なくとも、初めて見た動画は「小さな巨人」のMVだったと思う。

 


ROTH BART BARON -"小さな巨人"

壮大で高揚感溢れる豊かなバンドアンサンブル、そしてなにより、シルキーで神秘的、それでいて大平原の真ん中に立ったかのような心地にさせられる開放的なファルセットから真っ先に思い起こしたのはもちろん、Bon Iver。

日本にもこんな歌を歌えるアーティストがいるなんて、というのが第一印象ではあったけれど、初めて彼らのライブを観終わった時、その印象とはまた違う手応えを感じていた。彼らは巷にいくらでもいるような、ただただグッドミュージックを鳴らすだけで満足している、「いい子ちゃん、だけど退屈」なバンドの類ではないということがはっきりとわかったからだ。

そのことが筆者にとってはなによりも興奮する発見であったし、そういうバンドが日本にもちゃんといることが、心から嬉しかったことを覚えている。

 

彼らをなによりも特別な存在にするのは、表現というものを、しなやかに、大胆に、捉え直そうという彼らの姿勢なのだ。

 

 

そんな彼らの表現は、とても新しい。

けれども同時に気づかされる。とても原初的でもあると。

そして、彼らの音楽・作品・表現は、想像力と創造力で、私たちに音楽のあり方についていつも投げかけてくる。

 

 

ただ、彼らはそれをプロパガンダとしてはっきり発信するわけではない(それだから私は好きなのだが)。

であるがゆえに、彼らのそういった音楽活動に対する姿勢がいかに特異であり、そして真摯であるかがリスナーに伝わりきっていないのではないだろうか、というわだかまりを、筆者は彼らを知ってからずっと、抱き続けてきた…

 

 

さて、彼らはちょうどまさに今、昨年末から実施していたクラウドファンディングのアイディアを具現化すべくイギリスに渡り、ヨーロッパでの活動を始動させようとしているところ。私ももちろん、支援しましたし、彼らのこれからの活動には本当にワクワクしています。

だからこそ、このタイミングに改めて、この一見ただの素朴なインディーズバンドのひとつに見える彼らの存在が、実は今、他のどのアーティストよりもエキサイティングであることを見つめ直し、伝えたいーー

そんな思いから、これから数回、おそらく数週間に分けて、この“エキサイティング”という意味、それは「ROTH BART BARONは音楽の未来を“取り戻そう”としている」という意味であることを、このブログ記事のシリーズを通じて、5つの観点(音楽性・歌詞・ステージ・プロモーション・作品の「かたち」)から、筆者なりにつらつらと綴っていこうと思っています。

 

ROTH BART BARON一介のインディーズバンドでありながらも、音楽の「過去のかたち」を継承し、その上で「未来」に勇敢に立ち向かおうとする、まさに「小さな巨人」。その意味が、今、1人でも多くの人に伝わってくれれば本望なのです。

 

それでは、少々長くなりますが、これから数回の更新をお待ちください!

 

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